「塞翁が馬」日記


 少し言うのは恥ずかしいが、以前から大切にしている言葉がある。それは
「塞翁が馬」という言葉だ。この言葉の意味を簡略化してお伝えするならこうだ。
いつ幸せが不幸に、不幸が幸せに転じるかわからないのだから安易に喜んだり悲しんだりするべきではないという例えの言葉だ。
僕がこの言葉を大切にするきっかけとなったのは多くの名言、格言がある中、この言葉は理解し難かったからだ。
安易にというのは感情を押し殺せと言うことなのか?喜んでも、悲しんでもいいだろう。と頭が混乱した。その言葉を理解しようと私は考えていく中で私なりの答えときっかけをもらった。勝手な解釈、変換であるがいつ幸せが不幸へ、不幸が幸せへ転じるかわからないというならば幸せな時は幸せを安易にではなく深く噛み締めなさいと、逆語で表現している気がした。
この言葉自体に納得し、大切にしようと思った訳ではないが、考えていく中で、私に答えときっかけをくれた。
一人暮らしをして感じたこと、社会に出て感じたこと、思うことは多くある。でも心配をしてくれる人がいるということ、身体が健康であるということ、この当たり前と感じてしまうことを当たり前と感じることなく、小さな感謝を感じ、幸せとは何か、今でもわかりかねる部分はあるが、
僕は今は幸せなの"かも"と思えた。そう思えることが幸せなのだ。と…
私は以前までは、いや「今でも少し」名言や格言は綺麗事に過ぎないなと思っていた。なぜならその名言を残した人がどんな生活を送って尊敬に値する人なのかを私自身の目で見ていないから、その人の言った綺麗な言葉だけを私は信じていなかった。その分私の目で見て経験して尊敬できる人の言葉はとても心にささるし聞き耳を立てることができる。それはその人がどんな人か知っているからであると思う。
でも「今でも少し」になったのは本と名言、格言は似ている点があると思ったからだ。この本を読めば君も〇〇というような、この本を読めば変わる的なことを見出しとして使う本も多くある。だけど読んだだけじゃ変われないし変わらない。でも変われないかもしれないけど本自体は自己啓発本でも参考書でも小説でもきっかけ、補助にはなるなと。例えるならビート板?補助輪?松葉杖?的な要素なのではないかと思った。泳ぐための補助、乗るための補助、歩くための補助。
所謂変わるための補助の要素であるなと。(例えが分かりづらくて申し訳ない)
それを読んだからといって人は変わらないが、変わるきっかけ要因にはなると思う。名言、格言もただの綺麗事かも知れないがその言葉を得て変わるきっかけになるのではないかと。
そこ意地が悪い分「今でも少し」名言や格言を綺麗事に過ぎないと思っているが、今後は少し調べてみよう。名言、格言を好きになるきっかけをもらったから。そして新たなきっかけを求めて。(性格的にめっちゃ調べるであろう。少しの羞恥心を許してほしい。)

 
 p.s
調べていくうちに塞翁が馬にこんな意味があることが分かった。「人生において何がよくて、何が悪いのかは、後になってみないとわからない」という意味だ。これにはすぐ納得した。
今後の僕の決断の良し悪しはわからない。不安になるだけ無駄だと。そう言われた気分だ。良しにできるよう、幸せを深く噛み締めていけるよう頑張っていこう。

文構成がまだまだ稚拙なことを許して欲しい。(笑)

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