【短編小説】幸せ
嫌いな奴がいた。
周りから毒親だと言われてきたぼくの母にそっくりで、近くにいるだけで恐くもあった。
そんなアイツがぼくに告白してきたのが、今から4年程前だっただろうか。元々ノーと言えない性格でもあったが、面食らってOKしてしまった。
それが全ての始まりだった。
アイツはぼくの直属の上司だった。第一印象は『威圧的』。
実際その印象の通り、奴は周りの部下や気に入らない同僚、果ては性格の合わなそうな自らの上司にまで、威圧的で高圧的な態度を取るような人間だった。
プライベートでは最も関わりたくないタイプだからこそ、仕事ではそいつとトラブルを起こさないように接した。だって、万一何か衝突があったら休日にまで鬼電してきそうだし。
告白されてすぐ、アイツにぼくのどこが良かったのか訊いたら一番は優しいところだと返された。
情けは人の為ならずと言うが、まさかこんな思わぬ形で返ってくるとは…。自宅でシャワーを浴びながら、そんなことを思って頭を抱えた。
だが、恋人として接していく内に、だんだんと分かってきたこともあった。
アイツは内面がひどく臆病だった。それ故に周囲の人とのコミュニケーションの取り方が分からず、言いたいことを率直に伝えてしまっているのだと知った。
なのでそこに助言や指摘を加えた。するとどうだろう。アイツは素直にそれらを取り入れて、少しずつ雰囲気も柔らかくなった。
正直なところ、逆上されるかもしれないと思っていたので、しっかりこちらの言うことを聞いたのには心底驚いたのを覚えている。
1年も経つ頃には、あの人は職場の人間から不用意に距離を取られることもなくなった。
「キミのお陰でみんなが前より話しかけてくれるようになった!ありがとう!」
そう言われた時に初めて、あの人のことを少しだけ可愛いなと思った。それと同時に気付いた。
印象に囚われて偏った見方をしていたのは、ぼくの方だったのではないかと。
もうちょっとだけ、この人と付き合ってみよう。
いい方へと変わったこの人と一緒に過ごしたら、ぼくも母の影から抜け出せるかもしれない。そう思った。
「付き合った当初さ。ぼく、あなたのこと苦手だったんですよ」
キッチンで皿を洗いながらぼくがそう言うと、あの人は洗われたばかりの小鉢を布巾で拭きつつ笑った。
「あー、何となくそうだろうなとは思ってたよ」
「えっそうなの…?」
「うん。だから告白成功した瞬間、内心ドッキリか、もしくはからかわれてるのかなって疑うくらいびっくりしたもん」
「そうだったんだ…。まさか皿を洗いながらそんなことをぶっちゃけられるとは、当時のぼくは思いもしなかっただろうな」
小鉢を食器棚に仕舞い終えたあの人が、ぼくから洗ったばかりの皿を受け取りまたそれを拭き再び棚へと向かった。
ガラス戸を丁寧に閉めて振り返ったあの人は、軽く手を叩いてみせる。
「はい、皿洗いしゅーりょー!おやつ食べよ!」
「今日のメインはなんでしょうか、奥さん?」
「今回はなんとなんと…こちらのシュークリームになります」
「あ、それ1日限定50個のやつ。よく買えたね」
一緒に過ごすのが当たり前みたいになった日常で交わす、他愛もない会話。
世間からすればどうでもいいような些細なことで爆笑し合ったり、喧嘩したり。
今までは有限であると分かっていたが故に、手にすることも目の当たりにすることも怖かったもの。
それに名前がつくとするならば、きっと幸せというのだろう。
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