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【短編小説】恋を知らない

「佐倉ちゃん、おはよー」

佐倉水野(さくら みずの)。名字のようだが、『水野』は名前である。私個人、名前についていじり倒されるのは好きではない。
初対面の人にはよく「どっちが名字?」と訊かれたりいじられたりするので、ここで先手を打っておく。

そして周りのクラスメイトや友達や幼なじみ達は、何故か私のことを名字プラスちゃん付けで呼ぶ。

ある一人を除いては。

「おはようございます。高野さん」
いつものように声をかけてきたクラスメイトの男の子に返事をすると、彼…高野さんは噴き出した。

「相変わらずお堅いねー。佐倉ちゃん美人なんだからさ、もっと笑ったりしようよ!ねっ」
お世辞と余計なお世話を告げ、高野さんは自身の指で私の頬をつり上げた。

「あっはは、むにむにー!」
「ひゃめてくらひゃい…」

そんな風に高野さんにオモチャにされていたところで、ジャージを着た男性が歩み寄ってくる。

「高野くーん。人の顔で遊ぶんじゃありません」

「あ、ヒビセン!おはよー」
高野さんはその教師…響先生に声を掛けられ、ようやく私を解放した。

「おはよ。水野さん」
「おっ…おはよございます…ヒビ、キ…センセイ」

まただ。響先生に下の名前で呼ばれる度、私は謎の緊張に襲われる。
体は硬直し、上手く言葉を紡げない。体温は自覚出来る程までに急上昇して、心臓はうるさいくらいに大きな音で鳴り、不整脈のような症状に見舞われる。

「ヒビセーン…いっくら佐倉ちゃんと幼なじみだからって、佐倉ちゃんだけ名前呼びはいただけないんじゃなーい?
ヒイキだー」

高野さんが不満げに突っ込みを入れてきた直後、予鈴が聞こえてきた。
「ほらほら、立ち話はおしまい。2人共、早く教室行きなさい」

さあさあ。と響先生が笑顔を絶やさないままに、私達の背中に優しく手を添えた。

その一方で高野さんは、未だ頬を膨らませている。
が、流石に教師に無意味に噛みつくことはしない。彼は私を一瞥すると「じゃあ佐倉ちゃん、また後でねー!」と言い残し、今いるグラウンドから校舎へと駆けて先に行ってしまった。

「こーら、走らなーい」
響先生がそう高野さんに声を掛けた時には、彼はもうその声が届かないであろう場所にいた。しかし本当に足が速いな、高野さんは。

「水野さん」
高野さんが走っていく光景をただぼんやりと見ていた私は、響先生の呼びかけに気付かなかった。
「水野さん?」
2回名を呼ばれ、そこでようやく我に返った私は慌てて声の主の方を見る。

「あっ…はい、教室ですよね。私も早く行かなきゃ…」
何とか表情を取り繕って、私も高野さんに続いて校舎に向かおうとしたが、響先生に腕を掴まれて引き寄せられる。

ん?どういう状況だこれ…?

私がプチパニックを起こしていると、響先生が耳許に顔を近付けて小声で耳打ちしてきた。

「恋愛も程々にね?水野」
「はっ、ひゃい…」

言葉の真意が分からないまま、私はギュッと目を閉じて先生の顔が離れるのを待つ。

熱い。心臓が壊れたんじゃないかってくらい、今までで一番うるさい。なんで二人きりの時だけ、からかうように昔と同じように呼び捨てにするのか。
そんな同じ思考を何度も何度も繰り返していると、響先生がようやく私から顔を離した。

「いい子」

そう言って悪巧みが成功した子供のような顔で微笑み、彼は校舎へと姿を消した。

その場に残された私はというと、頭から湯気が出てるんじゃないかって程の自らの体の熱さに浮かされてフラフラと揺れた後、本鈴が鳴ったとほぼ同時に倒れた…らしい。後に保健室の先生が、授業を受けている時間帯の筈の私がグラウンドに倒れていたと教えてくれた。

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