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18の春のこと

私の明るいはずだった18の春のことを残しておこうと思う。もし読んでくれたなら、私の春をどう思ったか感想を教えてくれると嬉しい。

私は大阪の高校に通っていた。
通っていたところはいわゆる名門校で、高3になると周りは皆んな受験戦争真っ只中という感じだった。
私はその波に便乗して、なんとなく大学受験に挑むことにした。

大学受験というと、ただ勉強するだけじゃなくて、塾に行ったり、受験を受けに遠方へ行ったりと何かとお金がかかったり時間がかかる。ただ、親はお金は心配するなと言ってくれたので、ありがたく塾に行かせてもらって勉強した。

せっかくお金を払ってもらうなら良い大学へ、そして自分のやりたいことができる大学へ行こうと思い、第一志望を筑波大学総合学域群にし、合格するべく勉強した。

猛勉強とまではいかないが、まあ人並みには勉強しただろう。友達と毎日自習室に通い、誰よりも遅くに塾を出る。そういう生活をした後、ある程度の自信を胸に本番受験に挑んだのだ。受験が全て終わって解放された私は、どこかの大学には入れるだろう、来年は夢の大学生だと浮き足立って2/29の卒業式を迎えていた。

3/8、筑波大学の合格発表の日、私は友達と可愛いカフェに行き、ケーキとお茶を飲みながら結果発表のその瞬間を待っていた。ケーキの味も分からないほど緊張して、手に汗握るとはこのことという感じだった。
16:00、発表の時間になり、大学のサイトを開いた。そして私と友達は、叫んで抱き合った。見事合格していたのだ。猛勉強していないことへの不安があった私は正直落ちたと思っていたので、合格が分かったその瞬間の嬉しさというのは忘れられないほど大きかった。

この時の私は、そのまま筑波大学に行けると、それが堪らなく嬉しいとそう思っていた。

進学が決まったため、関西に住む私は引っ越しの準備に追われることとなった。
家を探して、家具を揃えて、あれをしてこれをしないと、、と毎日頭をぐるぐるさせていた。ただ胸には希望がたくさん詰まっていた。新生活はどんなに楽しいだろうかと、ひとり暮らしで何をしようと、そんなことを毎日考えていた。

3/16、家の内見に行くために私は父とつくばに向かった。ただ私はその日、朝から妙に体調が悪かった。その時は、自分も年頃だからそういう日もあるだろう、電車で酔いでもしたのだろうと思っていた。しかし、新幹線に乗って東京に着いた頃にはもう、胃が空っぽになるほど全て吐いてしまい、体力もほとほと尽きたという感じだった。私は東京駅で動けなくなってしまい、ヨロヨロの状態でなんとかつくばのホテルまでたどり着いた。ホテルに着いた頃には、私は歩くこともきついような体調だったので、内見には父1人で行ってもらった。現場の父からテレビ電話で内見を見せてもらうという謎のリモート内見を経て、部屋は無事決まった。しかし私の体力はどんどんなくなっていき、次の日には全くと言っていいほど動けなくなり、予想外の2泊3日のつくば旅行となってしまった。

つくばからはまさに命からがら何とか帰ってきた。しかし家に着いてからも私の体調不良は改善しなかった。全くご飯が食べられなくなり、見る間に私は痩せていった。ご飯が食べられないと身体のエネルギーも作られないので、2日に1回病院に行き点滴をしてもらうような生活を送った。私は非常に安直なので、正直このまま死ぬんだと思った。市民病院に行って血液検査をしても、大した異常は見られず、大パックの点滴を2本ぶち込まれて帰るだけとなった。

そんな私の姿を見て、母は私のことが心配になったのだろう。母はある日私に「筑波大学を辞めて関西大学に行かないか」と提案した。関西大学は私の第二志望の大学だった。ありがたいことにこちらも合格をいただいていた。しかし私は、せっかく1年勉強して受かったのだから、何としてでも筑波大学に行くと譲らなかった。これが不正解だったのだろう。しかしその時はそんなこともつゆ知らず、体調の回復を待ってつくばに行くことで母と合意した。

私の体調は、当たり前だが永遠に悪いままではなく、時間がかかったものの1週間ほどで日常生活が送れるような状態まで回復することができた。なので予定通り3月の暮れにはつくばに引っ越すこととなった。

3/31、私は実家を出てつくばに向かうこととなった。その日の朝、実家で最後の目覚めを迎えるわけだが、不思議なことにこれが最後であるという気は全くしなかったのだ。ただ数日旅行に行くような、不思議な感覚で布団を畳んだ。
両親と新幹線に乗り、夢の上京(正しくは通過)を果たした。その日は心も身体も軽く、ウキウキという感じだった。つくばに到着し、新しい家に向かい、家具や小物を購入し、新生活の準備をした。その日はアパートには泊まらず、駅近のホテルに泊まった。もうすぐ始まる新生活に胸躍らせて私は眠りについた。

次の日の朝になった。体調は最悪だった。3月中旬の体調不良がここに来て復活したのだ。慢性的な吐き気と倦怠感で動くのもままならず、家具の組み立てなどの新生活の準備を両親に任せて、私は部屋の隅っこで寝続けた。顔も青ざめ、ご飯も食べれず、動けない。そんな娘の姿を見た親の不安たるや想像に難しくないだろう。しかし、父は仕事のため一足先に実家へと帰り、しばしの別れとなった。

ここからがやばかった。
語彙力がなくなるが、やばかったのだ。

父が帰って母と2人きりとなった。
2人で部屋を片付け、小物を買いに行ったりと、細々したことを進めていった。
しかし夕方になると、母の様子がおかしかった。
動けなくてベッドでぼーっと寝転ぶ私を見て泣くのだ。まあ想像出来ないことはない。体調のすこぶる悪い娘をこれから一人暮らしさせるなど、不安で不安でたまらなかったのだろう。しかしおかしい。不安の度合いがおかしかった。母はガタガタ震えて私の手を握り、「怖い」というのだ。そう、母が抱いていたのはただの不安ではなく、異常な不安だった。しかし体力のない私はそれに受け答えをするのもままならず、ただその姿を見てポロポロ涙を流すしかなかった。

お互いにセンチメンタルな状況でその日は眠った。私は食欲もないので、夕食も食べず、18時ごろから眠り続けた。

事件は次の日の朝5時前に起こった。
誰かの息のする音が聞こえた。苦しそうな声だった。私はそれで目を覚ました。すると、そこにはパニック状態で過呼吸を起こしていた母がうずくまって座っていた。正直もう頭真っ白である。
母は死にそうな声で「救急車」というので、私はすっと冷静になり、119に電話をかけ救急車を呼んだ。ついこの間まで高校生だったにしては冷静な対応だったと思う。

救急車が来るまで、母のそばに行って、落ち着かせるように背中を撫でていた。母の背中を撫でながらいろんなことを考えた。母はなぜこんなことになっているのか。どうすればこの状況を終わらせてあげられるのか。そうして頭を巡らせた時に行き着いたのは、「こうなったのは私がつくばに来てしまったからだ」という思考だった。そう思ってしまった私はポロポロポロポロ泣いてしまった。それ見た母が「ごめんごめんごめんごめん」とまたパニックになって私にすがってくる。なかなかのカオスである。

救急車が来て病院に搬送され、母は処置室へ、私は待合の廊下で待つこととなった。待っている時間はものすごく長かったので、自然とぐるぐる考え事をすることとなった。

母があんな風になった原因はおそらく私がつくばに行くことであること。自分はどうして筑波に行きたかったのかということ。親をこんな風にするのは正しいのかということ。

いろいろ考えた。本当にいろいろ考えた。
考えて考えて、私に楽な道はないことを悟った。
周りの目も憚らず、ボロボロと号泣した。
ああこれは失敗だったと。私の選択は間違ってたんだと絶望した。

そして私は筑波大学に行くことをやめることにした。

親をこんな風にしてまで行くほどのところではない。ひとまず帰ろう。そう思った。

日が昇って、母が処置室から出てきた。
安定剤でぼーっとしていた。
その日はそんな廃人のような母を連れて関西へと逃げ帰った。私は惨めな気持ちでいっぱいだった。

今まで親の意に背いて県外の高校へ行ったり課外活動をしたのだから、今回くらいは親のために。
そう思って私は筑波大学を諦めた。

家にたどり着き、しばらくしてから、父には休学を勧められた。しかし私の心はもうぽきりと折れていた。あのアパートに帰るのを考えるだけで苦痛だった。母のあの呼吸がフラッシュバックして、トラウマだったのだ。もう筑波には帰らない。親のためにそう決めたのだ。これが私の人生はじめての他人のための決断である。

帰宅してしばらく日が経った時、母からは「大学は家から通えるところにしてほしい。それを親孝行だと思って堪えてほしい。申し訳ない。」と言われた。「お母さんのせいにしていいからね。」と言われた。その時はそんな気にはなれなかった。自分のせいで廃人のようになった母を見ると、母を責める気にはなれなかった。

その日から私は世に言う「浪人生」になった。
もう1年勉強することになったのだ。
その虚しさたるや言い表せるものではない。
大学には全部合格したのに、大学生にはなれていないのだ。訳の分からないことである。
ただ自分で決めたことなのだ。後悔するなんてカッコ悪くて、惨めなことだと思っていた。だから後悔なんてするまいと心に決めた。

しかし、母や父は最近よく言うのだ。
「失敗は誰にでもあるものだよ」

私は後悔してしまいそうだ。
私は誰のために大学を諦めたんだろうか。
決して本人には言わないが、母を思って浪人を決めたのだ。なのに、私の18の春は親に「失敗」と謳われた。あの春を失敗と言っていいのは私だけではないのか?

ただ浪人をさせてもらえるのは、感謝しないといけない。たくさんのお金も無駄になったことも重々承知だ。これ以上不満を言うのはわがままだと言うのもわかっている。

しかし、私は、本当は筑波大学に行きたかった。
もう諦めはついたが、あの時感じた惨めな思いや苦しい気持ちはこれからもずっとついて回る。

どうか、私の決断を嘲らないでほしい。
私自身も、私の決断を受け入れて納得してほしい。
早く前を向いて、進むしかないのだ。
立ち止まったって意味がない。そう分かっている。

でも劣等感と惨めな後悔がまだ拭えないから、未来に希望が見えないから、私はうずくまるしかない。
何に怯えているかも分からないけど、足が進みたくないと言っている。

でもいつかは進もうね、ゆっくり、ゆっくり。

これが私の18の春

もうすぐ19の初夏
私の未来よどうか明るく

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