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フェルマータとHob1:104のadagio の演奏

フェルマータはテヌートするという約束ではない。だが、その風潮は20世紀の中頃あたりまでに、主に、録音文化の影響から定着してしまったようである。

ベートーヴェンop67の冒頭5小節間における把握の失敗はここに起因する。つまり、2小節めや5小節めにあるフェルマータを長くテヌートさせ、音圧を高める効果を求めるのは、まさにフェルマータへの過度な期待がそこにあるからだ。

1小節めや3小節めの八分音符をことさら強調することと相まって、このフェルマータにおけるテヌート依存症は、必要以上にこの動機を作品から分離させてしまった。この5小節間にはある意味でその分離の効果を狙ってはいる。だが、あまりにも茶番に過ぎるその演奏スタイルはおかしいのだ。

フェルマータへのこのような依存症に陥ってしまうと、この5小節間にはダウンとアップの対比的な関係性が失われてしまう。つまり、音楽という論理性よりも音圧で圧倒しようとする低俗さの方が勝ってしまうのだ。冒頭の5小節間にある6拍子の図形が完璧に失われてしまっては音楽としての脈絡はまるでなくなる。

フェルマータは「延ばす」ことではなく、カウント停止である。そして、その結果としてカウントの仕切り直しの必要性を生じる。つまり、楽譜にフェルマータの記号を記すのはその仕切り直しの必要性があるからなのだ。

フェルマータでテヌートをしない。読譜をそこからスタートすると音楽が取り戻せる。

つまり、小節どうしのダウンとアップの関係性を考え、フェルマータが置かれている位置を考えるのだ。なぜフェルマータによって呼吸を「仕切り直し」する必要があるのかを考える。演奏の姿を模索する、とはそういう行為なのだ。

テヌートではない。仕切り直す。そう考えてみると、その2分音符たちはピアノを打鍵した時のような減衰効果が求められるのだ。

さらに深読みすればこの6拍子の骨格の中に求められているのは減速でもある。仕切り直しはフェルマータによる運動の停止、慣性力の放出の過程だ。この放出の過程を2段階踏むことによって基本テンポの維持は不自然になる。さらにいえば二度目のフェルマータは2小節めのそれとはその解放の時間が長くなっている。これは明らかに減速するのが自然な呼吸であるはずだ。

さて、このフェルマータについてのテヌート依存症を克服できると、興味深いのはHob1:104の冒頭である。最初の二つの小節には共にフェルマータが置かれている。テヌート依存症の場合、その20世紀的なフェルマータの演奏では無意識の間に楽譜が改変されてしまっている。4/4adagioで書かれている1小節めは実は二つの8/8の小節で書かれているかのような結果になっている。さらにフェルマータにテヌート依存していると、最初の2拍はフェルマータの記される二分音符のためのアウフタクトのような位置になってしまうのだ。巨匠風の演奏で聴き馴染んだ頭で楽譜を見たとき、この冒頭の記述にはむしろ違和感さえあったくらいなのだ。

この無意識のうちの楽譜改変を直そうとすると、この序奏における小節の動きに着目できるようなる。

フェルマータを持つ冒頭の二つの小節は指揮法的に考えれば結果は二分音符の6拍子である。この骨組みが基本の呼吸となって、この序奏の最初の二つの小節の呼吸は二つの2分音符の3拍子となっていることがわかる。

①1小節目1拍目2拍目
 1小節目34拍2分音符フェルマータ
②フェルマータ解除
 2小節目1拍目2拍目
③2小節め34拍目フェルマータ
 フェルマータ解除
 そう考えてみると、

①12 ②345 ③678 ④91011 ⑤121314 |①15…

という二つの二分音符が作る大きな3拍子を分母とする大きな5拍子が見えてくる。
演奏はこの基本の骨格を知った上でそれを4/4の呼吸に落とし込んでいくのだ。

さて、この基本の骨格をとても見えにくいものにしてしまうのがテヌート依存症なのだ。フェルマータは停止であり、慣性力の解放と仕切り直しであり、そのために書かれていない「拍」を内包している。この約束ごとに気がつくことで20世紀のテヌート依存症から救われるだろう。このHob1:104の序奏はその典型的な実例なのだ。

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