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知ることは自由になること〜「エロイカ」終結部に見る緩急対比について

ベートーヴェンop55第4楽章の終結部2/4prestoのmm数値は八分音符=116とされている。けれどもこれは極端に遅い印象がある。ブライトコフ新全集ではこれは四分音符の可能性もあることを示唆してはいるけれど、もしかしたらほんとうに八分音符=116は正しいんじゃないのかなと思う。

感覚としてはこの遅さは信じられない。だが、注目するべきなのはこのprestoで要求している32音符の刻みの連続だ。これは尋常ではない刻みだ。この楽譜のmm数値の速さでもやっと弾けるレベルではないだろうか?
そう考えるとこの数値はあながち間違えてはいないのではないだろうか?

このpresto に入る前、この音楽はpoco andanteであった。この時のmm数値は八分音符=108、実はprestoの時より僅かに数値が下回っている程度だ。四分音符に換算すると、poco andante は54、prestoは58だ。つまりpoco andante とprestoは音符の速さではほぼ同じだということになる。現代の感覚で捉えるとこんなことはありえない。だが、先日のBWV1068の1曲めの緩急対比でも説明したように、緩急の対比は決して音符の速さの問題だけとは言い切れないのだ。緩急の対比は使っているビート、刻み、拍節の変化によって実現できるものでもある。

このベートーヴェンの楽譜でも、poco andanteとpresto の対比はそういう問題なのではないだろうか。

「刻み」に注目するとpoco andanteの最後におけるそれは16分音符の三連符であった。それがprestoではさらにきめ細かく刻まれることになる。この違いをはっきりと認識することが楽譜が求めているこの対比を生かすことなのではないだろうか? 
またもう一点は小節の使い方だ。poco andanteでは2つの小節をセットにした「四分音符の4拍子」の呼吸を分母としている。これに対してprestoの開始部分は「小節による3拍子」の見通しで運動している。ここにギアチェンジがあるのではないだろうか、と考えるのだ。

この仮説の上で注目されるのはpresto最初の小節である431小節めの位置だ。

拍節的に見るとこの小節は外付けのアウフタクトの位置にある。

つまり、こういうことだ。
poco andante の最後のパターンである420小節めからは、2つの小節を分母とする大きな6拍子で進行する。だが実はこの呼吸はそのさらに前の408小節めから始まっている。そしてここからは低音の動きは三連符のビートを刻み始めている。この呼吸を小節番号で表してみると

①408 409 ②410 411 ③412 413  ④414 415 ⑤416 417 ⑥418 419 |
①420 421 ②422 423 ③424 425 ④426 427 ⑤428 429 ⑥430 『431』

という骨格になっていることがわかる。

つまり、prestoの開始の431小節めはpoco andanteの最後の拍節を埋め合わせる駒でもあるのだ。

こういう骨格から考えるとここでの緩急対比が、四分音符の速さでは54から59に少し変わる程度の変化でしかないことは充分に頷けるのだ。

ここでの緩急対比は、刻みがより激しい運動に切り替わること、小節の使い方が細かくなること、そして、音符の速さが若干、速くなることによって実現していることがわかる。

感覚的には「prestoなのに遅い」と感じるのだが、客観的に検証すると楽譜の主張が正しいのではないだろうか。

こうやってみると感覚的な疑問を「諦める」ことが出来る。「諦める」は悪いことではない。仏教では「真理を知ること」である。それは自信を持って楽譜の要求をさらに徹底できることになる。poco allegroとは決定的に違う意志を持って、その32分音符の刻みに音楽を乗せていくことが出来る。

「知ることは自由になること」というのを改めて実感するのだ。

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