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語るべきことは決まっている

エグモント序曲冒頭のサラバンドを形として聞かせられるか?物々しげで尤もらしい音響の羅列で終わるのか?

そこに音楽と音響の決定的な違いがある。後者のやり方は一見わかりやすい。だが、その音響には「意味がない」。その「意味ない」ものに意味を持たせようとするからおかしなことになってしまう。中学生がよく嵌るアレと大して変わらない。

音自体を聴いてしまうのはもはや音楽ではない。結果として形を失ったゲシュタルト崩壊した音響だけしかない。その音響の良し悪しを語るのは音楽とは無縁の話しでしかない。

音楽という知的行為と、音響という本能的快楽との違いを明確にしないままでいると結局は音響を楽しむ快楽だけで終わってしまうのだ。

演奏するにあたって「上手い」というのは、そういう語り口の小慣れ方が絡んでいる。それは英語をそれっぽく語れるかどうかとの違いと同じだ。英語をそれっぽく語れるのは「形」としての認識があるかである。「形」が見えていない者の語りにはいくらやっても音の羅列しかできない。それを「言葉」として聞き取るには受け手の理解に頼るしかない。もし、そんな状態の演奏があるとしたら、それは酷く下手なものになる。音楽としては。ところが「音響を楽しむ」嗜好としては成り立つことがある。実はそこが問題なのだ。自分にとって、特にブラームス演奏について回る問題意識はそこにある。

op98の第4楽章のシャコンヌ主題8小節分を「ひとつ」の言葉として語れる力がない演奏は音楽にはなれない。その力のない演奏者には楽譜からテンポ感を読み取ることはできない。音響の羅列で終わっているのだ。

ベートーヴェンop84の冒頭の場合、

1 ・) 2 3 4 | 5

という小節が作る4拍子によるサラバンドの音形が見えているとしたら、このsostenuto のテンポ感はおよそ定まってくる。一般的な演奏例がなんであれ、楽譜が見せているテンポ感はこの音形を聞かせることである。逆にこのサラバンドが見えているから、往年の演奏例に聞かれるような壮絶に遅重い演奏は音響と尤もらしい雰囲気しか伝えられていないこともわかる。
それらはHob1:104に代表されるような古典の交響曲の序奏の演奏などと同じく、後期浪漫派の目から見た誇張でしかない。尤もらしい音響を並べる演奏では楽譜が伝えている形はまるで見えてはこないのだ。

そして、このような形を忘れた音響垂れ流し演奏の傾向はブラームスop98の第4楽章をめちゃくちゃにしてしまうのだ。そのシャコンヌ主題さえ、まともに見えないような重い響きの羅列では、楽譜に書かれているAllegro energico e passionatoとは完全に解離したものしか聞かせることはできないのだ。この点に関しては演奏者だけでなく、明らかに楽譜とは異なるその演奏を許容しているという点で、そのような一般的演奏からスタートしている批評者も同罪なのだ。間違えは間違えなのだ。

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