音で捉えようとするのは把握の失敗に繋がる
ベートーヴェンop125 のクライマックスのひとつに、6/8による歓喜の主題の大合唱の部分がある。誰もが知っている名場面だ。
だが、ここはオーケストラが初めて提示し、そのまま「神の前に」のフェルマータまでで歌われてきたそれではない。
なぜ6/8なのか、なのだ。それをよみ間違えるとこのクライマックスでの主題の「変奏」が、単純な歓喜の主題の大合唱で終わってしまう。つまり、付点四分音符の4拍子に陥ってしまうのが、それだ。
もちろん、自分も子供の頃は「喜びのうた」そのものとして、そう捉えて聞いていたけれど、楽譜を見るようになって、その間違えに気がついた。
この6/8は「行進曲風に」の流れの一環の中にある。そもそも、このallegro assai vivace の把握から間違えている恐れがある。この6/8の音楽の起点はどこにあるのか?そこを読み落としている。「神の前に」のフェルマータで曲が終わってしまう演奏があるが、そのフェルマータ解除のタクトが、次の部分の起点になっている。つまり。楽譜に書かれていない小節がある。その仮定小節をフェルマータ解除のタクトで示す。楽譜はvivace と言っているから、そして、バスドラとcfgの四分音符を中心にした小節構造から見ても、この音楽は、アップとダウンの2つの小節を分母とする音楽であることがわかる。このリズム感に始めから乗れていない演奏も少なくない。だから、バスドラとcfgの四分音符の位置からして間違えた認識のまま数合わせで演奏されてしまう。
この6/8の開始をアップの呼吸で開始できれば、分かるが、話題にしているクライマックスはアップの呼吸の小節から歌われることが分かる。つまり、「喜びのうた」的な付点四分音符の4拍子とはアクセントの位置が違ってくるのだ。
アップとダウンの2つの小節を分母とする4拍子で把握出来ると
Freude, schöner Götterfunken,のアクセントの位置が、付点四分音符の4拍子の場合とは違って後ろにズレる。それがわかると、このクライマックスがなぜ6/8のノリなのかが分かるだろう。この合唱を支えるのが弦楽器群の「6連符」の嵐である意味も見えてくるはずだ。
逆に付点四分音符の4拍子のノリで演奏される場合、この「行進曲風に」は2つの部分に分断されてしまう。それは楽譜の事実からどう見ても作品の望みではない。
そして、さらには第1楽章から作品全体に筋を通している「6連符」の再来が全く意味を成さないものになってしまう。6拍子を3拍子2つでしかカウントできないようでは演奏などできないのだ。
ひとつのストーリーを分断する、付点四分音符の4拍子のリズムを聞かせる演奏に出会うと辟易するのだ。
そういう演奏は、どこに起点があり、どこに帰着するのか見えていないで鳴らしてしまうのだ。
これと王宮の花火の音楽の序曲におけるリズム感の誤認問題は似ている。小節の6拍子で歌出されるこの主題を、2分音符の4拍子にしてしまう演奏は少なくない。だが。その捉え方では冒頭の2分音符の存在意義を忘れている形になるだろう。
これらの箇所は、聴いた印象に支配されてしまう典型例だ。音だけを聞いて、骨格を見ない。それは前世紀的な恐竜化石研究と同じ失敗をおかしている。
みんなもそうやっている、感性が大事、などと開き直ってはならない。
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