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隣合うものは同じではない。小節も。

小節は並列的に考えない。小節は隣合う小節と何かしらの相対的な関係にある。例えば、ブラームスop68第2楽章の冒頭はアウフタクト的に2小節めにかかっている。
つまり、この1小節めというアウフタクト運動が4小節に落ち着く大きな波になっている。そしてその勢いは5小節にインパクトを与えている。そして、その5小節めは次のアウフタクトとなって6小節めへかかり、その流れは9小節めへかけて増幅し、そこからゆっくりと小節の4拍子のリズムに乗って自然なクールダウンしていく。そしてその一連の流れが17小節めに収束すると、オーボエがメロディを歌い出す。

つまり

1 | 2 3 4 5 |  6 7 8 | 9 10 11 12 | 13 14 15 16 | 17…

という骨格を持って17小節めに至る「一連の流れ」を築いていく。

この1小節めがアウフタクト的な位置にあることは22小節にその答えがある。17小節からのオーボエの歌の伴奏としてそのクレシェンドの効果として活躍している。そして、この場面によって1小節めからの17小節間の一連の運動は「前奏」であったこともわかるのだ。

いつも例に出すブラームスop73の第2楽章も小節の中で考えようとするから形が見えないのだが、3つの小節が作る大きな4拍子という骨格が見えていると、感覚の間違いから脱却できる。

① 0 1 2 |② 3 4 5 |③ 6 7 8 |④ 9 10 11 |①12…

チャイコフスキーop74の第4楽章もその小節の組み合わせ方が見えない演奏では単なる重たい音列でしかない。やたらとテンポが遅くなるのは雰囲気の問題というよりも音楽が見えていないのではないだろうか。

0123|4567|8…

という4拍子がこの主題の基本形を作っている。その骨格が見えていると4小節めのアクセントは決して機械的なお約束ではないだろう。

あるいはベートーヴェンop36のLarghetto は二つの小節が中膨らみの関係で結びついた分母が音楽を作っている。1小節めは2小節めにかかっている。3小節めは4小節めに連なっていく。
この結びつきを小節線を中心に見てみると

1|2 3|4 5|6 7|8…

という動きが見えてくる。そして、論理的には7小節め、8小節めに落ち着くことを見越すと、

①0|0 ②1|2 ③3|4 ④5|6 ①7|8…

というこのメロディの骨格も見えてくる。

あるいはK.425の冒頭も無頓着なadagioになってしまう可能性があるのは小節の組み合わせが見えていないからだろう。

つまり、この冒頭の動きはどこに向かっているのかを見ずに巨大な音響を並べてしまうから愚鈍な重い音響にしかならない。というか、そうとしか見えていないのだ。

だが、この流れが3小節めに決然と落とされることが見えると

① 0 ② 1 ③ 2 |① 3 …

という骨格が分かり、このadagioのテンポ感もまるで違ってくるのも見えてくるのだ。

音符が並立的ではないように小節も並立ではない。何かしらの相対的な関係性がある。自分にとって譜読みとはその読み取りでもある。

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