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「知っているつもり」を磨く

ベートーヴェンop67の第4楽章の3小節め、メロディは四分音符4つではなく「8分音符+8分休符」が4つでできている。この部分に作品の並々ならぬ主張を感じるのだ。

なぜ四分音符4つではないのか?あるいはなぜ四分音符にスタカートではないのだろうか?

実は今までこの問題にあまり注目しなかった。そんなの当たり前だと思っていてなんとも思わなかったのだ。だが、この事実に「気がついて」からはいろいろ考えさせられるのだ。

実は、単純明確に「四分音符ではない!」ということが示しされているに過ぎない。のだが、そこに「四分音符ではないのだ!」という意志を強く感じるのだ。

四分音符ではなく、各拍には確実に「八分休符」が存在する。その明確な主張があるのだ。

まずその効果としてvaの刻む16分音符がそこに残ることが期待されている。逆に言えばそのvaの刻みはとても注目されるべき存在であることも改めて発見できる。

そして、各拍が重く踏まれることがないことを期待している。確実に八分休符が存在することを意識するとその八分音符は極めてエッジの効いた、躍動感のあるものとして演奏されることになる。しかも弦楽器は重音奏法でこれを弾くことになるのだが、その発音の「痛さ」がまるで香辛料のように際立つのを感じる。

この小節の発音への拘りはこのフレーズ自体の全体像にも大きなヒント、あるいは制約になっている。この各拍へのステップ感の軽さは他の音符へも影響を与えているからだ。

例えばこの鋭いステップを乗り越えた次の小節にある付点2分音符はどう弾かれることを望んでいるのだろう。当然、それは軽いものになる。前の小節でのジャンプの高さでは到底深く思い着地は不可能だろうからだ。それは5小節めや6小節めの頭の音符にも同様なステップが想像される。さらにその軽く集約的な1拍目の演奏の仕方は2小節めの付点2分音符にも同様な軽さが求められるだろう。そこがもし、重く深いステップならば、3小節めは求められる歌い方ができないだろうからだ。

結局、数学の証明問題のように、あるひとつの角度がわかったことで、他の場所の数値も法則的に明確になっていくのだ。

これによって第4楽章冒頭の歌い方は、かなり範囲を限定的にしていることがわかるのだ。それは自ずとテンポ感にも影響する。冒頭小節も2小節めの付点2分音符の弾き方が見えているので、例えば管楽器の二つ2分音符もテヌートしたべったりした歌い方は期待されていない。そのことを象徴するかのように弦楽器は「四分音符+四分休符」なのだ。

つまりこの第4楽章冒頭のフレーズはそれなりの速さを持った、躍動感のある演奏が期待される。

この俊敏で鋭い冒頭フレーズは練習番号Aの、26小節めからの管楽器の豪快なレガートのコーラスと対称を成す。この対比の見事さを生かすためにもテンポは速目な範囲に限定されている。

さて、この対比の見事さは小節の使い方でもはっきりとした差別化を示している。
6つの小節を分母とする大きな4拍子で一気に23小節間を駆け抜けてきた音楽は24、25小節をダンパーとして受け止められる。

このダンパーはその勢いを受けつつも、ここで音楽の分母を小節二つにして切り替えていく。このダンパーは切り替え装置のような役割になっているのだ。

この音楽はJ.シュトラウスの「常動曲」のように、そういうシステム的な動きを見せることによって楽しませる効果もあるのだが、この辺りにも、そのためのテンポが限定されてくる。

昨日の記事のように第3楽章との緩急対比の交換も考慮に入れると、第4楽章の快速さはおよそ範囲が見えてくるのだ。

20世紀的な精神論による誇張や音圧で聴かせようとする「伝統」とやらから解放されるためにも、記憶や外部情報を遮断し、楽譜から考える姿勢が必要なのだ。

聞き馴染んでいて、当たり前と思っているものにでも、取り組んでみると新しい何かは必ずある。そして、「当たり前」と思っていることは実は自分自身の油断でもある。

記憶をなぞっているだけでは発見はない。それはだらしない脂を腹に弛ませてしまう生き方と似ているのだ。知っているつもりは怠惰の始まりなのだ。

感性は磨けない。でも、自分の「知っているつもり」を磨くことは発見の宝庫なのかもしれない。

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