序奏と主題の断絶〜シューマンのピアノ協奏曲開始の難しさ
とある動画番組でシューマンop54のある古い演奏録音を聞かされてふと思ったのは雰囲気で演奏することの虚しさだ。
オーケストラの物々しい冒頭の8分音符が鳴り響くも、そこには方向性がない。その一撃をどうするかという一点に全ての集中が集まっている。だから4小節めで上手く受け止められないのだ。つまり、その演奏では冒頭3小節の形は崩壊している。言い方を変えれば「オチ」がつかない。その物々しいオーケストラの響きが尤もらしい雰囲気は作っている。音響としては立派だ。しかし、4小節に繋がらないために形としては失敗なのだ。「起点から帰着点へ」という流れ、「オチ」に着くというのが論理である。その論理としての構造がめちゃくちゃなのだ。
この冒頭は難しい。なんの前触れもなくショッキングな切り込みで始まる最初の3小節。そしていきなり哀愁感の強いメロディが歌い出される。音響だけの感覚的な捉え方では冒頭3小節と4小節めとは乖離してしまう。前奏と全く違う呼吸でメロディを歌うしかなくなってしまう。だが、このop54はそんな駄作ではないのだ。そうなってしまうのは演奏の失敗でしかない。そしてそれに気がつかない批評眼のマヌケさでもある。
この問題はK.551のallegro vivace 冒頭でありがちな失敗に通じるものがある。この冒頭は「vivace 」典型の1小節めによるテコ入れから突然始まる。だがその運動は最初のフェルマータまでを区切りとするひとつ巻物のように長い「ひとつ」である。
1 |①2 3 4 5 |②6 7 8 9|③10 11 12 13 | ④14 15 16 17 |⑤18 19 20 21 |①22 23・)
この5拍子構造で括られた星形がここにはある。これはこのひとつの塊としてsinfonie の華々しい開始のファンファーレでもある。逆にそのように「ひとつのもの」としなければフェルマータを置いてある楽譜の意味がない。
だが、感覚的、感性的な近眼の視野で見てしまうと1小節めと2小節め3小節めに妙な対比を見つけてしまう田舎芝居をやってしまう。そのやり方は一見、感覚的には感性の研ぎ澄まされた名演のように聞こえる。だが、そのために形は完全に崩壊する。そして、9小節めから本気で立ち上がるという見え見えの田舎芝居。また、対比を仕切り直す5小節めとかの幼稚な演出も聞いちゃいられない。
シューマンの場合も形が見えていないから冒頭3小節と4小節めに乖離が生じてしまう。
さて、この冒頭の形を把握するためにはどうしたら良いのだろう。
そのためには4小節めから始まるメロディの構造を掴むことによって「引き算」で冒頭の形を捉えてみるのが近道だろう。
4小節めから歌い出されるメロディは11小節めに帰着する。そして12小節めからはそのメロディをピアノソロが受け継いで歌い始める。そしてそれは19小節目に帰着する。このピアノソロの歌うメロディの構造を見てみると11小節目に起点を置く小節の4拍子が見えてくる。
(①11)②12 ③13 ④14 |①15 ②16 ③17 ④18 |①19…
と考えてみると、4小節めの位置が見えてくる。
(① 3 )②4 ③5 ④6 |①7 ②8 ③9 ④10 |①11…
つまり、3小節はメロディのための起点の小節に当たる。そう考えてみると冒頭の二つの小節は3小節目にある帰着点に向かっていることが見えてくる。
③ 1 ④ 2 |①3 ② 4…
という仕掛けが明らかになる。音楽は拍節の3拍目から突然始まっているのだ。
つまりこの冒頭はK.551の開始と同じように拍節の1拍めを立ち上げるテコの運動の役割を果たしている。
そういうop54冒頭の基礎的な骨組みが見えると、さらに、
④1 2 |①3 4 ②5 6 ③7 8 ④9 10 |
①11 12 ②13 14 ③15 16 ④17 18|
①19…
という拍節構造が見えてくる。この構造が見えて初めて冒頭と主題がひとつの流れの中にまとまって捉えられる。そして、テンポ感も見えてくる。
部分的なものの組み合わせのような構造物はある意味で幼児の描く絵と似ている。それは印象的なものが優先されるバランスのない不自然な造形でしかない。音楽演奏もそのような不自然な、バランスの崩れた継ぎ合わせのようなものになりかねないのだ。
感覚的、感性的な音響だけで音楽を捉えようとするのはこのように論理の造形の破壊である。感性に従った演奏はときには幼児の絵なようなバランスの壊れた継ぎ合わせしか生み出さない危険性がある。このことを決して忘れてはならないのだ。
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