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文章が読めない人と音楽

文章を読む力のない人は、結局その論理の帰結するところがどこにあるのかを待てない。その帰結するまでの過程の中の、単語やフレーズに囚われてしまう。だからその文章の帰結点までを「ひとつ」として捉えられない。英語文はとても見通しの良い構造を持っているけれど、関係詞やなんやらの仕組みが見えてこない人には、やはり捉えられない。

「音楽は感性で聴く」という捉え方をしている人はこの手の類と同じ失敗に陥ってはいないだろうか?
つまり、単語やフレーズのような部分と同じように音響自体を捉えてしまうのだ。そのメロディの、あるいは運動の帰結点までを捉えられないのではないだろうか?

その典型的な問題は、以前書いたようにコリオラン序曲の冒頭だろう。最初の3つの小節の音響に聞き入ってしまうと、この冒頭の論理の空間設定が見えない。どこに論理としての帰結点があるのかを待てない人はそこで終わってしまうのだ。そこで和声論を持ちだすまでもなく、単にその先を見ようとするだけでいい。この先のどこに帰結点があるのかを追求できるかどうかにかかっている。この冒頭の形から見えて初めて、この作品は古典的な緩急対比の形になっていることがわかる。

コリオラン序曲冒頭を2つの小節による6拍子とその帰結として捉えられることで、形が見えてくる。この形が見えていないのに演奏するのは音響の垂れ流しでしかないのだ。

こういった大きな形が把握できると楽譜が持つテンポ感がわかる。昨日話題にしたチャイコフスキーの12/8も同様なのだ。小節の4拍子という大きな骨組みが見えないと小節の中に足を付けてしまう。アウフタクトの三連符が持つ機動力を発揮できなければ12拍子で書いてある意味は無くなってしまう。音響に溺れたダメな演奏と、この曲の実はクールな表情が生かされている稀な演奏とはそこが決定的に違うのだ。

この機動の仕組みが見えればテンポは自ずと決まってくる。8分音符を丁寧に摘み上げたところで音楽にはならないのだ。

これは交響曲第4番第1楽章の9/8の場合、もっと深刻な問題になるだろう。何がこの音楽を動かしているのかを小節レベルで把握できなければ音並べしかできないだろう。


チャイコフスキーに限らず、ブラームスにしてもラフマニノフにしても、その豊かな和音の響きにばかり聞き入ってしまう演奏は形を失ってだらしないビールっ腹を晒すことになる。

音楽は音を使った論理だ。起点があって帰結点がある。その過程を含めてできるその形が捉えられなければそれは単なる音響の横並びに過ぎないのだ。

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