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BWV1068でみる緩急の移行

バロックや古典派の音楽において、緩急対比は本来、演奏システム的な問題であった。テンポが大幅に変わるというよりも、指揮者なしでもその切り替えが可能な範囲のものであったはずという仮説から、今の自分の立場は始まっている。

指揮の勉強を始めるきっかけに、あの頃の自分が向き合っていた古典派の作品やバロックの作品たちのこれらの問題があったのは当然だった。

これは例えば、BWV1068の序曲の緩急対比が実はテンポの切り替えではなくリズムの切り替えによって感じられたはずのものだったという言説と演奏にであったことがきっかけだった。

これは今では確信を持って行っている。その立場からスタートすると、ベートーヴェンop125の終結部におけるpretissimoとmarstosoの緩急対比におけるベートーヴェンのmm数値も十分納得できる。さらに言えば、それはシステム的に実現可能なものであったことも頷ける。
こうした緩急対比については例えばD944第1楽章終結部に冒頭テーマが再現される場面やHob:103や101などの3/4adagioなどでも楽譜の意味が理解できるものになるのとは20年くらい前の旧旧ブログで散々書いてきた問題でもある。

緩急対比が極端になる背景は後期浪漫派の時代の影響、さらにはそれに続くレコード録音の普及による一般化にあったであろうことも推察できる。そもそも「伝統」などということ自体がクラシック音楽演奏の短い歴史の中でどれだけ当てになるのかは極めて疑わしい、というのが自分の見解である。これらの問題も含めて演奏者自身による取捨選択の問題に過ぎないのだ。

さて、そうした上で、BWV1068の序曲について書いていこう。緩急の移行があっても音符の速さは変わらない。だが、付点リズムに支えられてきた「緩」部とは異なり、「急」部は16分音符の刻みが進行を支える。つまり、「緩」は遅すぎることはあり得ない。

この壮大なフランス風序曲の「緩」の冒頭部は小節を分母とする5拍子でできている。そして、このきっかけは0小節めを起点としていることも、逆算的に見て取れる。

さて、この前半の「緩」部はその最後、20小節めからは小節の4拍子にシフトしてくる。また、「急」部の後を受ける107小節からの後半(中間)の「緩」部はすぐに5拍子には戻らず、3拍子→4拍子→5拍子とリレーしていく。これらも緩急切り替えの配慮なのかもしれない。
この辺りも興味深い。

さて、5拍子がなにかしらの「厳粛さ」の象徴なのかはわからないが、ベートーヴェンop125の第1楽章の第1主題が小節を分母とした5拍子でできていることも、ドイツ音楽に反復して「急」部に戻ることと演奏上の便宜上の配慮なのだろうか?その辺りの興味も尽きないのだ。




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