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ブラームス交響曲第1番第4楽章の序奏について

ブラームスop68第4楽章の序奏は未解決のまま演奏されがちだ。

その「感性」的なモヤモヤの中で適当に尤もらしく演奏され、主部に至る。苦悩から歓喜へなどという適当なイメージに騙されたながら進むその序奏は、おそらく作品の狙いとは全く違うところに行ってしまっているだろう。ロマン的であるよりも最も音楽的であろうとしたこの作品の作者の思惑とは全く違うことが常識になっているように思う。

結論から言えば、このadagioは3つの小節を分母とする4拍子で開始される。その骨格を探るヒントになるのはallegro主題の片鱗を見せるフレーズの位置である。

楽譜上で1小節めとされるその開始の小節は実は「1拍目」を欠いた不完全小節に過ぎない。だが、これを「1小節め」とカウントしているのはこの序奏の論理上の理由による。逆に言えば、それがこの序奏の形を解くヒントでもある。

①012 ②345 ③678 ④91011|①12…

そして、12小節目に帰着するこの運動は、さらに4つの小節を分母を分母とする3拍子として動き出す。そして小節を分母とする5拍子に発展して、piu andante に至る。この因数分解分析を怠ってしまうと、この序奏は「楽劇」的な音響ドラマに堕ちてしまう。作者と作品は切り離して考える立場にはいるのだが、それでも、それが作者の望みとは到底考えられないのだ。

この感性的なモヤモヤが当たり前になっているこの作品の受け入れられ方が実はこの作品を酷く「恥ずかしい」ものにしてしまっているのだ。

楽譜上ではこのadagioは4/4となっている。だが、運動的な面から捉え直すと2/2的な動きになっている。まずは初見的な4/4から、音楽的な2/2での捉え方ができないと作品の形は見えてこない。それはop73の第2楽章と同じだ。2/2の呼吸で捉えると音楽としての動きが見えるのだ。
「楽劇」的な音響から「音楽」としての論理としての把握に転換できないとこの序奏の演奏は失敗に終わるのではないだろうか。

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