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分かってから語る〜音を並べるからの脱却

ベートーヴェンop68を始めるにあたって、最初のフェルマータまでを「一言」として語れるかどうか。

演奏するとはそういうことだ。

つまり、音符を数えて並べて、それが「楽譜通り」というほど機械的な問題では済まないのだ。

演奏とは、どう語るのかという問題と切り離しては考えられない。何を持ってひとつのフレーズとして、ひとつの息の中に収めるのか。それは日本語の発想では掴みにくい。音を組み合わせて単語を作る日本語と、息として単語を発音する西洋の言語とは決して同じではない。その違いを自覚することが必要だ。そして、この問題は日本語環境にいるからこそ自覚できる。

「一言」としてフレーズを語る自覚が必要なのだ。

例えば、BWV1068のガヴォットがだらしない結果に終わる失敗は、そのひとつの息の中に語るべきものの把握の失敗が原因なのだ。それが見えていないから「真っ赤な秋」みたいな歌い方に陥ってしまうのだ。
このガヴォットの場合、

0 1 2 3 | 4…

という小節の4拍子がひとつのまとまりとして見えていないと、そのクールなメロディが生きないのだ。さらにそれに続くフレーズが6拍子であることも見えていればなおさらだろう。

語るべき「詞」が見えていないのに語ることはできない。音符のひとつひとつを愛でるように見つめていても、音楽として、意味ある詞として語ることとはまた別なのだ。

そういう意味で音楽は「論理」である。楽譜というルールに従っている限り、フェアな状態である。そのルールを逸脱すればアンフェアとなる。それがマジョリティなものであったとしてもだ。

歴史的な奏法とか、実は以前はとても興味はあったし、結構勉強した。作者の境遇とか、歴史的背景とかもだ。

だが、それらによっても、「楽譜の事実」は変えられないはずだ。必ずしもそれが「この作品」に当てはまるかどうかは確証がないからだ。ある証言がそうなっていたからといって、それが全てに当てはまるというのはご都合主義でしかない。それも「可能性のひとつ」でしかない。

むしろ、それらの情報が楽譜の事実を蝕んでいるのを知ると、楽譜の外の情報自体信じられないものになる。

あるのは「目の前にある楽譜」であり、それをどう捉えるのかの自分だけなのだ。

歴史的な奏法や事情、あるいは作者自身の言動や演奏を知ったところで、それが本当に全てに当てはまると言い切れるのかどうかは疑わしい。新しい校訂版の楽譜もふくめて、むしろ、それらの問題も「可能性のひとつ」でしかない。結局、信じられるのは「目の前の楽譜」でしかない。逆に言えば楽譜から考える自分の演奏自体でさえ「可能性」のひとつに過ぎないのだ。

フェアという点で考えれば、「目の前」の楽譜を逸脱しないことしかない。そこからやり得る可能性で勝負するしかない。だから自分にとって楽譜外の情報は信じるに値しないのだ。

ベートーヴェンop68の冒頭では3つの小節はタイで括られている。この事実はその上に乗っているメロディは4小節めのフェルマータに向かう過程であることを示している。

1 2 3 | 4・)

この小節の三拍子でできたフレーズは区切ることのないひとつの詞だ。フェルマータのある帰着点を目指して、この「一言」は語られる。その一言を見据えているからリズムが生きた語り口が可能になる。

対して、それぞれの音符に神経を行き届かせた発音は「心が篭っている」ように聞こえるかもしれない。だが、それは作品の持ち味を逆に殺している。「non troppo 」を言い訳にしても、 それではあまりにも「allegro」の設定を無視している。そのような鳴らし方は、あまりにも我田引水な姿勢だと思うのだ。そこに作者の心情だのなんだの理由にするのかもしれないが、そういうのがアンフェアな姿勢なのだ。気持ちを込めるのはフレーズの歌い方に対してであり、音符のひとつにではない。その違いは明確に区別されなければならない。

演奏するのは「詞」であって「音」ではない。音響に何かしらを見出すのは本能的な感覚でしかない。だが、音楽は「論理」であり、「意味」である。そのことだけは見失ってはならない。

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