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平坦に見える道にも起伏を見つける

WAB107の第2楽章は4/4で設定されているが、呼吸は2分音符の音楽になっている。それは楽譜を見れば一目瞭然だろう。つまり5小節めのアウフタクトは、4小節めの最後の2つの四分音符である。

冒頭の動きは2つの長いスラーで括られていて、それは5小節めのアウフタクトを起こすために動いていく。0小節めを起点とする大きな4拍子がこの最初の帰着点に向かうまでの長い軌跡。これが5小節めのアウフタクトから始まるフレーズのための「枕詞」になっている。

この「枕詞」を本体にしてしまうのは把握としては失敗だ。本体はあくまでその先にある。つまり、それは本体を導き出すための省くことのできない過程なのだ。音楽における「枕詞」という定義はないけれど、その存在を認めると、これまで表れていなかった作品の姿が見えてくる。ん

例えば、D759の冒頭8小節間とか、ブラームスop68第2楽章のオーボエがメロディを歌うまでの区間とかがそれだ。

それらを本体として捉えてしまうから、本体が薄まってしまう。主客の立場の違いが見えなくなってしまう。つまり、ドラマの起伏が捉えられないで、全部が一律になってしまうのだ。

そういう点で、最もわかりやすい問題はブラームスop98 の第4楽章だ。シャコンヌテーマの最初の4回転が枕詞として捉えられない。冒頭が本体となってしまうから、ソナタ形式が見えてこない。単なる横並びの変奏曲と見做されてしまう。それは作品の姿が平板にされてしまう原因になっている。

本体とそれを導き出す過程とを差別化して捉えられないのは、過程の変化の姿を平板化してしまうだけなのだ。

ある意味、バロック音楽の時代からの緩急対比方法への見識も必要なのかもしれない。緩急対比は決して、劇的なテンポ変更ではない場合も多い。楽譜の使い方、リズムボックスの使い方が、その対比になっていることもあある。ベートーヴェンop125の終結部のmaestosoも楽譜の設定上ではテンポが遅くないのだが、その理解にも関わる。

場面の変化、主客の対比、陽と陰の対比、左と右、鏡の対比…見過ごしてはならない起伏の違いに気がつくねばならない。

「単なる連続」としか見えない捉え方では起伏の細かさは見えない。どこかに対比があるはずてあり、その違いを見い出そうとしなければ何も見えないのと同じなのかもしれない。単なる遅い速いのテンボの問題はその先なのだ。

WAB107第2楽章の開始も、その冒頭4小節がどのような位置にあるのかを把握もせず、深い音響に酔っているだけでほ、退屈な演奏にしかならない。

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