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他人の振り見て…〜とある失敗例から学ぶこと

チャイコフスキーop74の第1楽章の第1主題も楽譜と演奏が乖離しているように聞こえる典型だ。

小節の中を完全に4つの四分音符で数えているから、楽譜上での呼吸感が生かさせれてこないのだ。

その問題が顕著になるのは例えばallegro non troppo の5小節め(23小節目)、そして、その拍節感の破綻が29小節め〜31小節めで決定的になる。この辺りの難しさを妥協的に乗り越えるために四分音符で数えて合わせるしかなくなっているのではないだろうか。そもそもこの4分音符の数合わせの呼吸ではアウフタクトから立ち上がるフレーズがまるで1拍目のようになってしまう。だから、この主題は生きた呼吸をしてこない。リズムの面白みはまるで死んでいる。

序奏も主部も2分音符の音楽であるのは楽譜上明確だろう。例えば序奏では2〜3小節めの動きがそれを如実に示している、30小節めの2/4拍子の挿入もその明白な「尻尾」だ。

序奏は小節を分母とした4拍子であり、その拍節感で見れは5小節目のsfは至極尤もな指示である。そこに向かって動いていく運動の方向性が見えると2ndcbのシンコペーションの動きは納得のいく明確なリズムとなる。
また、30小節めの2/4挿入は結果として29小節から31小節にかけて「2分音符の5拍子」を作っていることを認識できるだろう。これらの楽譜上の事実を見ると、四分音符で「数えている」だけでは単なる数合わせでしかないことがわかる。その初見時のような数合わせのまま演奏してはこの曲の呼吸は生かすことができない。休符が聞き取れていない状態だからだ。主部のスリリングな音楽は全く生かされてはこないのだ。

そして、この5/2を突破すると音楽は4つの小節を分母としていくことで安定していく。

さて、この「2分音符」という共通因子があるというヒントから、この序奏と主部との緩急対比は2:1の関係にあることが読み取れる。つまり、序奏の2分音符は主部の小節ひとつ分に当たる。この比率関係が明確だからこそ87小節めのadagioは無理なく実現できる。
さらにいえば、続くandante も四分音符基準の音響に塗れた絶唱にはならない。楽譜上でも2分音符基準ですあることは明白だからだ。八分音符のひとつひとつを明確に鳴らすような楽譜ではないのはフレージングを見ればわかる。

この音楽が「筋肉質で機動性のある」ものになれないのは演奏の責任なのだ。テンポ感の問題というよりも楽譜上の音楽の呼吸が読めていないのだ。結果的にこのallegro non troppo もandante もそれほど弛緩した遅さではないのだ。2分音符という基準の鼓動を微妙にコントロールするだけなのだ。

このような基準音符の読み間違いはD759冒頭をダメにするのと同じ失敗になる。

いつも言っていることだが、「未完成」冒頭の場合は「3つの小節という単位」が見えないとその楽譜の呼吸は死んでしまう。それは楽譜を見れば明白だろう。「未完成交響曲」のロマンから脱却して楽譜で考えないと、楽譜のいうallegro moderatoの呼吸感は見えてこない。
同じように「悲愴」というタイトルやそれに纏わるドラマという背景にこだわっているといつまでも経っても真理は掴めない。先日も書いたように作品は作者から独立した閉じられて完全な論理だ。かつての演奏家がどんな演奏記録を残していようがそれは関係ない。それらは単なる使用例に過ぎないのだ。楽譜の事実から考えうる可能性で勝負するのが演奏者の姿なのだ。

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