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雑-07| 帰郷、そして飄々の人・江坂清作と出会う


2024年5月31日/記
(敬称省略)

 大学の卒業後は、当然ながら、家がよほど裕福でないかぎり、自分で食っていかねばならない。モラトリアム時代が人一倍長かった私は、さすがに待ったなしの状態にあった。その他、いろいろな理由から、帰郷することにした。

犬山派?を名乗る

 このブログの別文で触れたとおり、私は京都の同志社大学に在籍していたが、追い出されるギリギリのところで卒業の見通しが立った。さて、どこへ行くかだが、文化的な活動をしていた友人を見てみると、その一部は東京に向かった。本気で活動を継続するには、やはり国内では東京というのが定番である。
 私の場合、関西に根強くある反東京の気分がいつの間にか伝染していて、東京には強い抵抗感があり、最初から除外していた。では京都に残るかというと、それもまったく考えなかった。
 京都は、貴重な歴史の宝庫ではあるが、他方では、学生や学者がひしめく町でもあるので、新しい文化の流入も盛んである。そうした新しい文化に触発されて私は活動を始めたのだ。が、何年もやっていると、そこで手に入れたと思い込んでいたものが錯覚で、堅い保守の岩盤の上を流れる表層文化にすぎないことに気づかされる。京都の本音はあくまでも保守であり、ここに自分の未来はないと考えた。
 
 結局、故郷の愛知県犬山市に帰郷という道を選ぶことにした。何かの都合で家に帰ったおりに、ひさしぶりに犬山城に登り、天守から周りを見渡しながら、帰郷したのちは「犬山派」を名乗ることにした。もちろん、これはちょっと大げさで、「派」などと呼べる内容はなく、個人的な気分だけの話だが、わりと本気だった。表層の文化を消費するだけではダメだ、地域を変えなきゃ何も変わらない、ここから出発するんだと。

 それにしても犬山は妙なところで、普段見かける突出した建物というと、この国宝犬山城であり、次に際立つのが岡本太郎の「若い太陽の塔」(日本モンキーパーク)なのだ。大阪万博前年の1969年に完成した小型の太陽の塔である。伝統と現代の、珍妙な共存がなんともおかしい。結果的に、我が犬山が、岡本の初期理論である対極主義を体現しているようで、二度おかしいのである。

犬山で個展と企画展を開催

 私の帰郷をもっとも喜んだのは父親である。長い学生生活の間、仕送りは一度も絶やさなかったし、心配はしていたのだろうが、小言はもちろん、愚痴さえ一度も漏らさなかった。母親からも苦言はなかったから、大甘の家庭だったのである。
 父親に帰郷の話をして、すぐに就職先は決まった。犬山市役所に勤めていた父は、〈 公務員はどうや、民間企業よりは時間の余裕があるから 〉と、こちらの気持ちを察して提案してきた。さらに〈 犬山市だと市民から家まで仕事を持ち込まれるから、隣の江南市役所がいい 〉という専門的なアドバイス。ということで、ものの5分で決定した。で、試験を受けて合格し、1974年4月に地方公務員生活が始まったのである。26歳だった。

  公務員1年目だったと記憶しているが、犬山で個展を開いた。犬山の人口は当時6万人程度で、画廊が1軒もなかった。駅近くのレンタルスペースを借り、「犬山派」を名乗った案内状を手作りし、開催した。
 観客数という点ではさんざんだった。長く地元を離れているから地縁がないし、画廊ではないから固定客もない。京都からわざわざ来てくれた友人たちが最大の観客で5人か6人、通学中の犬山高校の生徒など数名を引っ張り込んだ。その中に教諭が1人いて、少し話をした覚えがある。あと、親戚が数名。ともかく状況無視の無謀な個展だったから当然の結果である。それでも懲りず、同じスペースで、のちに語る江坂清作の協力で児童画の展覧会を開催した。それが私の犬山での初企画展である。

 「地域を変える」などということは、大言壮語であった。犬山派の名称は早々と引っ込めた。しかし、地域からという発想はもち続けた。地域の範囲を広げて名古屋に転進し、その後は名古屋を中核とした中部文化圏の独自性を獲得するための活動に励んだ、つもりである。また、少しのち、犬山にある財団法人-岩田洗心館の館長であった岩田正人と出会うことで、犬山での活動を再開できた。これらについては、あらためて別文で語らせてもらおう。

表稼業と裏稼業

 帰郷を決めた段階で、表稼業と裏稼業の二股になることは覚悟していた。表稼業は教育委員会内の社会教育課でスタートした。最初に断っておきたい、自分の自由な時間を最大限に生かして裏稼業に使おうとしていたので、一流の公務員は狙わなかった。が、三流かというと、そうでもなく、二流の下くらいの仕事はした、と思う。当時の江南市民の方々に弁解しておきたい、決して給料泥棒ではなかったと。
 裏稼業を表に忍び込ませることはしなかった。ところが、美学卒業としゃべっていたので、市民美術展を担当させられた。前年までの展覧会ポスターが酷いので自分でデザインしたが、中日新聞の地域記者が気に入ったらしく、取材を受けた。まあ、記事にはならなかったけども。

 その市民展には自分も出品、大型の紙風船を大量に並べて但し書きを置いた作品である。たしか「12歳以上の人は触れるな」と書いたと思うが、当然、触れてもよい年齢の子供たちの手で紙風船はボロボロになった。
 また、京都アンデパンダン展に市役所の身分証明書に血判を押した作品を出品したが、作品は残っていないし、記録もない。帰郷後の活動に関する資料は、ほとんどが紛失、もはや記憶で語るほかないのである。

 

江坂清作と出会う

 市民展の運営委員会の会長から、委員会欠席の江坂清作委員に挨拶にいってくれと頼まれた。〈 委員などやりたがらない人だけども、名前だけでも入っていてもらわないと、私が困る 〉という。その会長は、光風会の会員だったと思うが、地域を代表する画家であった。江坂委員に対してたいへんな気の遣いようだったし、行政もていねいに対応してくれということだった。
 そんな経緯で自宅を訪問した。どんな偉そうな人が出てくるのかと思ったが、まずは奥さんが出てきてニコニコ、続いて本人が顔を出してニコニコ、お茶とお菓子の歓待を受けた。雑談をしている内に、裏稼業の美術談義になったり、大学に在学中のお嬢さんが美学の後輩であることが判明するなどで、表稼業の話は吹っ飛んだ。居心地がよいので長居して、その後もたびたび訪問するようになったのである。


◆ 江坂清作 ◆


 江坂清作 年代不詳


 江坂清作(1924~2013)は、愛知県碧海郡安城町(現安城市)生まれで、名古屋市への移住をへて、1959年から江南市の住人になっていた。私より20歳以上も年長であり、親の世代に近いのだが、そんなことは気にせずに付き合える人であった。いつも飄々としていて、温厚、だけども気まま。
 江坂夫人に聞くと、例えば、東京にちょっと行ってくると言って出かけたのはよいが、なかなか帰らない。そしたら東北から連絡があり、じゃあ帰るのかと思っていたら、いつの間にか北海道へ、といったこともあったそうだ。ただ、人に迷惑をかける類の気ままではないし、放蕩などとは無縁である。
 最初は何で食っているのか不思議に思ったこともあるが、ちゃんと働いていた。あとで触れるとおり、美術教育では評判の高い人だった。江坂とは、美術界の話でもフワーとした感じで、生っぽい話はしなかった。だからそのままフワーとしか彼を見てこなかった。江坂の具体的な活動を知ったのは、ずっとずっと後のことだ。私が朝日新聞(名古屋本社版)に執筆した連載「化石の美術神話・名古屋」(注1)のため、太平洋戦争後の復興期などについて調べ、そこで江坂にたどり着いた。
 彼の美術活動は、戦後の復興期にぴったりと重なるのである。今回、新たな取材情報を加えて、書かせてもらおう。

(注1) 「化石の美術神話・名古屋」『朝日新聞(名古屋本社版)』 地域の戦後美術史を掘り起こしながら書いた連載で、月3回、1999年1月から1年余り執筆。江坂清作については第10回の時に言及した。


江坂、戦後画壇へ

 江坂が美術に深い関心をもったのは、早い時期ではない。岡崎師範学校(愛知教育大学の前身)に進学しているから、そこで教育用美術の基礎勉強くらいはしていたものと思われる。ただ、当時は戦時中で、美術に取り組める時代ではなかった。しかも途中で学徒動員となり、国内(桶狭間)で兵役に就いた。
 そして1945年の終戦で、軍務を解かれる復員と師範学校の卒業がやってきた。部隊の残務整理のためすぐには帰れず、卒業証書は江坂の父親がもらいに行ったらしい。異例ずくめの時代であり、今の常識で当時の状況を想像することはむずかしい。
 安城に帰ってからは、すぐに近隣の碧海郡明治村の小学校や中学校の教員になった。この頃から絵を本格的に描き始めた。画材が十分にあった時代じゃないので、学校近くにあった海軍航空隊基地のもはや無用となった格納庫の壁からベニア板を剥がして代用キャンバスを造ったと。これは江坂夫人から聞いた話である。

 こんなふうに絵を描き始めた江坂だが、驚くほどの短期間に高い評価を受ける。本格的に絵を初めてから、わずか2、3年後には二紀展に入選し、名古屋市長賞を獲得する。1948年のことである(注2)。賞の名前から推測すると、二紀の名古屋展での受賞だったのではないか。
 これだけならまぐれの栄冠ということもありうるが、さらに翌年からの度重なる受賞となると偶然では片づけられない。1949年に光風会展で光風賞、中部の作家たちが激しく競った中美展で最高賞を受賞、この時24歳だった。さらに1950年の光風会展で光風賞を連続受賞、結果、1951年に光風会から会員推挙となる。24歳の新人が鮮烈な美術界レビューをして、2年後には異例の大出世をしたのである。

 会員?、それがどうしたと言われそうなので、少しばかり説明しておこう。1960年代前半くらいまでは、美術家にとって美術団体は必須要件だった。日本の美術は、複数の美術団体が競い合う世界であり、いわゆる画壇を土台として展開してきた。彫刻なども美術団体の一部門になっている場合が多く、ほぼこの画壇に重なる。
 そして、どの団体の公募展に入選するか、さらに団体の会友、会員になれるかどうかが、作家の評価や地位に直結した。とりわけ光風会は長い伝統と権威を保つ美術団体であり、その会員となることが当時の多くの美術家の目標になっていたと言ってもよい。

(注2)1946年と記された資料もあるが、これは誤記。


早くも会員を辞退、なぜ?

 光風会の会員となった江坂には順風満帆の画家人生が開けてくるはずだった。ところが、会員になって2年後の1953年には、会員を辞退してしまうのである。なぜなのか、光風会内でいさかいでもあったのかだが、何もないようなのだ。夫人によると、「窮屈なのが嫌」「面倒なのが嫌」という性格からの辞退ではないかと。そんなことで、とは思うのだが、それがありうるのが江坂である。
 彼とした雑談、だからずっとのちことだが、その中で鬼頭鍋三郎の名前は時々出ていた。鬼頭は江坂が会員になった当時、名古屋の光風会のみならず名古屋画壇を代表する存在だった。のちに光風会理事長、日展顧問などを勤めた画家である。
 雑談の感じでは、鬼頭にも光風会にも悪感情は抱いていないようだった。おそらく、会員になって生じた窮屈と面倒が本当に嫌だったのではないか。ただし、目の前に栄光の道が用意されているのにドロップアウトというのは、よほどの強い意志がなければできないだろう。「嫌」の背後に、表には出していない「頑固」があったと推測する。

 それにしても早い時期の辞退である。あの岡本太郎が二科会を脱会したのが1961年である。この頃から美術団体を退会して、無所属として活動する作家がだんだんと増え、新しい美術の動きを作って、現代美術の世界が広がっていく。その結果、画壇と現代美術界が並立する、日本独特の美術界が成立することになる。もちろん、もう少しあとの時代のことだ。

脱藩浪人のような

 早くも無所属となった江坂は、その後どうしたのか。それが、飄々として、気ままに、公募展荒らしをやるのである。制作は懸命に続けていたし、描いた以上は公表したいと思ったのだろう、国画展、独立展などに応募する。
 無所属だから誰からも文句を言われる筋合いはない。しかし、画壇ではすでに無名というわけではない、とりわけ名古屋ではそうだった。入選すると名前もバレて、あの人が、ということになる。自然に美術団体を横断して付き合いが始まるが、自由、気楽な付き合いは嫌ではなく、むしろ好きだった。
 当時、国画会名古屋を代表する画家が杉本健吉で、江坂が中美展で最高賞を受賞した時の審査員の一人でもあった。この杉本との関係も、一緒に写生旅行に出かけるなど、良好だったと聞く。また、国画会の実力派画家の音部幸司、岩田和子と仲良く3人展(愛知県美術館)を開いているから、国画会との関係はけっこう深まったのかもしれない。もちろん会員にはならないのだが。
 この当時は、画壇の人たちから見れば、脱藩浪人のような画家なわけである。ただ、実力とキャリアがあるから、無視はできない。というか、会派を横断して闊歩する自由人であり、本人に世俗的な駆け引きや欲がないから楽しく付き合える、そんな不思議な存在感のある人になったのではないか。

 こうしてみると、江南市民展の会長の〈 名前だけでも入っていてもらわないと、私が困る 〉という言葉の背景が理解できる。夫人によると、江坂は〈 僕が委員会に出ると、迷惑をかけるから 〉と言っていたという。権力はもたないけども、存在感はあって、いろいろ忖度されてしまう立場だったからである。しかし、それより何より、きっと面倒だったのだろう。
 

美術教育者としての江坂

 江坂と言えば美術教育者というのが、すくなくとも地元では有名である。もともと師範学校卒で、小学校、続いて中学校の正規教員になっていたから、美術教育は彼の本分だと言えなくはないが、美術教育においてもどこかユニークなのである。

 光風会の会員を辞したのが1953年、この年から椙山女学園大学付属小学校の絵の先生になっている。正規の教員でありながら週3日の勤務であった。請われての就任らしく、それゆえ許された特殊な勤務形態ではなかったか。今も椙山学園のホームページには付属小学校の美術教育の貢献者として紹介されているから重要視されていたことが分かる。
 それにしても公立中学校の正規の教諭を辞めてということだから、やはり、なぜ?という話になる。光風会の会員辞退が「窮屈と面倒が嫌」ということが正しいとすれば、同じ理由で中学校辞職に至ったと推測できる。週3日の椙山勤務は、1986年の定年まで30年以上続いたから、よほど気に入ったのだろう。
 その他にもいろいろ頼まれて教えている。名古屋市内のマハヤナ幼稚園、刈谷高校知立分校、中部大学建築科、一宮中日文化センターなどである。また、マハヤナの場を借りて青年や成人対象の画塾も開いている。教えることは嫌いじゃない、ただし、自由気ままも手放したくない、という感じである。

独特の美術教育

 美術教育の実例を語る興味深い証言がある。刈谷高校知立分校で教えを受けたのが鶴見雅夫(1936~2021)で、高校3年生の時に新制作に入選し、その後多摩美術大学に進み、新制作の会員になっている。
 2013年に江坂の米寿記念の自選個展があった。会期の1ヵ月ほど前に江坂が死去したため、遺作展になってしまったが、そこに展示された挨拶文で、鶴見が江坂の教育について回想している。

 鶴見の高校生時代のこと、江坂から〈 「さあ君達、これを1分間で描きなさい」と言われて絵を描いたが、そのモチーフは「音」でした。バケツを叩く音と机を叩く音・・・。この音をコンテで1分間で描く・・・。この自由な表現指導が「作家」を育てたと思います。素晴らしいイメージトレーニングの教えに感謝しています 〉と(注3)。
 鶴見が日本の抽象絵画の展開に貢献した画家であったことを思い出すなら、その背景に江坂の美術教育の影響を指摘することも、あくまで想像だが、可能であろう。1953年前後という時期であり、当時としてはきわめてユニークな美術教育だった。また、別の人からは、「たばこのけむり」を課題にすることもあったと聞いた。

 1950年設立の「日本学生油絵会」は、西田信一(創立者)、安井曾太郎(初代会長)、猪熊弦一郎、林武、脇田和、鍋井克之、寺内萬治朗、須田国太郎という、当時の代表的な画家8人で結成された。この会主催で、翌年の1951年から「全日本学生油絵コンクール」が開催されたが、第1回の時にアトリエ賞を受賞したのが長野北高校2年生だった池田満寿夫である。
 江坂は、1954年の第4回開催の時、指導者奨励賞を受賞した。江坂が指導した刈谷高校分校の生徒の作品が入選入賞し、指導力が評価されたのであろう。その生徒が鶴見だったのか、他の生徒、あるいは複数の生徒だったのか、この点は要検証である。なお、このコンクールは、「学展」として今も続く。

 鶴見は多摩美術大学の教員になったが、江坂の教え子には教員になった人が多い。版画で知られる渡辺達正(春陽会)は鶴見と同じく多摩美術大学、地元では筒井明(新制作、名古屋学芸大学)、桑原佐吉(新制作、名古屋女子大学)、稲垣敏彦(新制作、名古屋学芸大学)、中島裕(行動美術、南山高校)、等々である。すでに故人となった人も多い。
 なお、新制作協会所属の人が多いから、江坂が新制作に深く関わったのかと推測したのだが、逆だった。江坂は、教え子たちに、自分と関わりのある美術団体には応募しないでくれと言っていたというのだ。他の団体ならどこでもよいとも。教え子を束ねて画壇で政治的な力をつけるなどということは大嫌いだったし、美術界でよく使われるフレーズ「師は○○」といった上下関係の拘束などは彼の頭になかった。

 私が教員をしていた名古屋造形大学の教員では、美術評論家の中村英樹が評論家デビュー前の時期に頻繁に江坂宅にやってきたというし、私と同年の加藤鉦次(新制作)の場合は、教え子の教え子だったらしく、孫弟子と称して遊びにきていた。その加藤も、江坂について〈 あの人は自由人だった 〉と語っている。さて、私を含めると、小さな大学に3人も江坂の世話になった教員がいたことになる。いやいや、なかなかの確率である。

(注3) 「江坂清作自選展にいってきました」『キミちゃんのブログ2013年10月13日(Ameba)』掲載の写真による。2024/03/30閲覧。


長谷川公茂と交友

 江坂宅で、ある日、長谷川公茂(1933~2023)に出会った。のちに円空研究の第一人者となり、円空学会の理事長を長く勤めた人である。江坂と長谷川の関係は、江坂がまだ安城で学校勤めをしていた頃からである。当時、教材販売業をしていた長谷川が学校を訪れたことで二人は出会った。長谷川の方が10歳ほど年下だが、二人は非常に気が合ったらしく、一生の友となった。

 江坂夫人によると、名古屋市(石川橋)の借家、さらに自宅を建てるための土地を江南市に見つけてくれたのも長谷川だったという。長谷川は江南市在住だったから、結果的に、自分の近くに江坂を引っ張ってきたことになる。

 円空仏との出会いは、それぞれである。長谷川は1955年に地元江南市の音楽寺で円空仏を発見し、そこから円空研究にのめり込んでいった。江坂の場合、戦後の早い時期に骨董市で見かけて、その独特の造形に関心をもったが、それが円空仏であると知ったのは少しのちであった(注4)。さらに深く関わるのは長谷川の導きだったのであろう、しばしば一緒に円空の聖地巡りの旅に出ている。円空に関しても、意見を交わせる、よき友となったわけである。

(注4)江坂清作「円空上人の生涯を絵にして」『定本 愛知県の円空仏』郷土出版社、1990年。


懸命に描き、あとは・・・

 江坂絵画の変遷について語りたいと思うのだが、これが難事なのである。前に触れた「化石の美術神話」執筆時に、中美展最高賞を受けた作品を掲載したいと江坂に申し出た。出してくれたのはよいが、キャンバスを丸めて保管していたので、広げてみたら、何が描いてあるのが分からないくらいの剥落で、作品写真も撮っていないという。
 今回、あらためて夫人に聞いたのだが、すべてがそうだとの答えであった。大型作品は無理でも、中小タイプの作品はどうかだが、あまり残っていない、売れてしまったのである。本人は売ることに熱心ではなかったので、これは意外であった。

 ようするに教え子たちが心配をして個展を手配すれば重い腰を上げるのだが、開催すると多くが売れてしまう。作品を手放すのが嫌ではないけども、売れたことを喜んだかというと、そうでもないような・・・まあ、無頓着と言ったらよいだろうか。
 描くことへの執着は強く、懸命に描くし、普段から写生帳を携えていて、絶えず手を動かしている。が、描いた結果である作品への執着は薄く、記録さえあまり残さない。もちろんそういった一面をもつ人も少なくないとは思うのだが、江坂の場合、その程度がプロとしては例外的な方だろう。

 そんなわけで江坂作品の推移を追うことはむずかしく、ひどく大雑把に語るほかない。初期の作風は、光風賞受賞から推察すると、基本は写実だったと思われる。それがおそらく10年余り続いて、1960年代に入ると抽象傾向の作品を描くようになる。1962年には現代日本美術展に応募出品しているし、1964年の文芸春秋画廊(東京)での個展資料からもそれは明らかである。作風としては大きな変化だ。しかし、さらに大きな変化がある。

人形が触媒となって

 いつ頃からか特定できないが、写実傾向が復活する。ただし、現実のモノを描くという意味では写実であるが、描かれた世界は非現実的である。例えば、五島列島などに取材し、盛んに描いた教会シリーズなどもその一例で、建築の物体としての存在感は薄く、空気感のようなものが描かれている。そして、さらに非現実傾向が強いのが、人形をモチーフにした作品であり、このシリーズについて少しばかり語っておこう。

 私が江坂宅にお邪魔した早い頃、骨董店で入手したというアンティークな西洋人形を見せてもらった覚えがある。やはり骨董店で購入したと思われる壺類の中に鎮座していた。その後、1982年に「人形をつつむ青い空間」と題した個展を小田急ハルク(東京)のインテリアギャラリーで開催している。案内状には自作文章が付されていた。
 
 ◆〈 青い空間の中に木製のドイツ人形が住んでいる。このアンティックドールは、私のコレクション群の守役であった。それが、いつからか絵の中の主役として、もぐりこんできて、小さな椅子に腰を掛け、ブランディをのみ、チェスをしたり、土人形たちと遊び、彼らの統率者となる。 (略) 人形をつつむ空間は、海の底の様に、静かなドラマを演じてくれるでしょう 〉(個展案内状より)
 
 文中ではドイツ人形が中心のように書かれているが、発想の中心やきっかけになったという意味で捉えた方がよいだろう。事実、案内状に掲載された全3作品の内の1点を見ると、人形を連想させる要素がほとんどない(図1)。

           (図1)江坂清作《シャボンだま》制作年不詳

 この頃には江坂の作風は大きく変化している。抽象画のモダニズムを脱して、人形を媒介にした物語性が絵画に復活し、非現実的な異世界が広がる。そこには幻想性あり、官能性あり、抒情性あり、童画的な味わいもある。作品によっては、人形を描いたのか人を描いたのか、その境界が曖昧である。全体に平面化した2次元的描写となっていて、描写対象の実在感は薄い。イラストレーションに近い感触もある。
 2点、作品を掲載しておこう(図2、3)。

(図2)江坂清作 題-制作年不詳
(図3)江坂清作 題‣制作年不詳

 作風の点では、画壇美術はもとより、一時近寄った現代美術的な展開とも歩みを異にしている。もともと江坂の関心事は多様で、美術教育に対する愛情は深かったし、先に述べた円空との関わりでは円空仏をモチーフにした絵や絵物語を描いている。ただし、江坂に宗教的な欲求があって、それが創作行為に重なっていたとは思えない。円空の生き方に深い関心はあったであろうけども、〈 造形的には円空より木喰だね 〉といった純造形的な判断をしていたからである。

飄々と自分の道を

 こう考えてもよいのではないか、美術のメインストリームからは離脱して、自分の関心事に即して独自の探索を楽しんだのが江坂だと。興味深い軌跡がそこには見られるばかりか、その軌跡の中に浮上する美術家像がさらに興味深いのである。
 多くの美術家たちは、最前線に立とうと、熱く熱く、必死になって先陣を争うのが通例である。たいていの場合、承認要求も強い。だが、江坂は、これまで見てきたように、一旦は画壇に鮮烈レビューしたが、瞬く間にドロップアウトしてしまい、飄々と自分の道を歩んだ。その生き方に、メインストリームの美術家たちとは様相の異なる、もうひとつの美術家像が見えてくる。
  
 いろいろ江坂について書いてきたが、江坂が生きていたら〈 三頭谷君、僕のことはどうでもいいよ、好きなようにやってきただけだから 〉と言われそうだ。しかし、こうした美術家がいたことを伝えておきたいと思い、私は私で勝手に書いたのである。

 

(帰郷、そして飄々の人‣江坂清作と出会う おわり)



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