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中西伊之助物語 「伊之助と母」⑧     中西伊之助研究会幹事 水谷修


東京の伊之助 その2

伊之助、
海軍兵学校入学を
拒否される。

 伊之助は『文芸公論』(1927年11月号)の「夢多き頃ー私の二十歳前後」という文章に次のように書いている。
 「私は三月、神田の大成中學校の、五年生の編入試験に及第した。そして一方、國民英學會や研數學館などの夜學にも通つて、英語や數學を研究して、兵學校入學の準備をした。百圓の金のある間に、私は兵學校に入らねばならなかつたのだ。」
 しかし、海軍兵学校に入学志願書を提出する段になって、戸籍上「私生児」になっているために入学を拒否されたのだった。戸籍上「私生児」になっている理由が、父親の養子入籍が遅れたためであることについては「伊之助と母③」に書いた。
 その時の落胆ぶりを「ナポレオンがセントヘレナへ流鏑された時ほどの絶望を感じた。」と振返っている。
 絶望した伊之助は、海軍兵学校長である富岡定恭海軍少将に、不合理な差別をなじった血書を送った。しかし、その血書への返答は何もなかった。

『文芸公論』(1927年11月号

伊之助の
大成中学卒業問題

 「夢多き頃」に「百圓の金もつきた。大成中學もすぐやめた。私の憤慨のやり場はどこにもない!」と書いている。
 『文芸公論』に「夢多き頃」を発表してから9年後、『冬の赤い實』(實踐社1936年)というエッセイ集に「夢多き頃」を再録しているしている。その「夢多き頃」には「大成中學はどうにか出たが」と書き換えられている。「すぐやめた」と書いていたものが、9年後には「どうにか出た」に変わっている。このことは研究者の廣畑研二氏が発見した。そこで筆者は卒業したのか、やめたのか、検討してみた。
 大成中学とはどんな学校か。杉浦鋼太郎(1858〜1942)が1888年、官立学校受験生のための予備校「大成学館」を九段中坂に、1897年に「大成学館尋常中学」を設立した。二年後に「私立大成中学校」に改称した学校で、現在は大成高等学校(三鷹市)になっている。
 『大成七十年史』に中村宗雄(第一四回卒業生)氏が「わが大成中学校は、この途中編入に広く門戸を開いていたので、四年、五年になると、下級学年とはうって変わり地方色がきわめて豊かとなっていたようである。いずれも郷里の中学校をあとにして、上京した者どもであるから、どこか尋常一様でない一癖者が多かった。秀才もおれば努力型もあり、いわば野人の集まりであって、公立の中学校とはふんい気を異にした、なにか型にはまらない闊達の気風がただようていた。」と明治時代の様子を書いている。
 『林巨正』の作者、洪命憙は1907年4月に大成中学校3年生に編入学した。ずっと首席を通しながら卒業前の三学期に突然帰国してしまった洪命憙に対して、あとで中学校から卒業証書が送られてきたという。「特別卒業」だったのだ。ほかにも「特別卒業」卒業生が沢山いたようだ。
 伊之助は、大成中学在学中に兵学校願書を出し、拒否されて悲観して中学をやめてしまった。しかし後になって卒業証書が送達された。したがって「どうにか卒業した」のではないか、と筆者は推察している。
 この私立中学の卒業証書はのちの伊之助の人生に少なからず「役立って」いるようだ。(後で書く)
※新潟女子短大教授、波田野節子氏「洪命憙が東京で通った2つの学校」から引用もしくは参考にした。

伊之助、徴兵検査で
宇治に帰省

 「愛讀者への履歴書」に「海軍士官にはしてくれなかつたが兵卒にはいゝと見えて、私は徴兵で伏見工兵第十六大隊に入れてもらつた。鐵砲を打つ稽古、爆破、突貫、みんな面白かった。それで上等兵になつた。上等兵になつてから、營倉二度、禁足無數。」とある。
 当時の徴兵検査は5月だったので、伊之助は1907年5月、住所地であった京都府久世郡槇島村(現宇治市)で徴兵検査を受けている。つまりこの時、宇治に帰っていることになる。
 伊之助の学生服姿の写真がある。「明治四十年五月東都より省したる在二閲月」とメモされている。徴兵検査帰省時の記念写真なのだろう。
 徴兵検査に甲種合格し、その後、楠久津(伊万里市)の母親の家に、入営までの間、身を寄せていたのではないかと筆者は考えている。
 『我が宗教観』には「その後、私の二十一の頃一年ばかり、私は母のそばにゐた。」とある。数えで21歳の事だから、入営前の、満20歳のころ母と一緒だったのだろう。
(つづく)

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