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中西伊之助物語 「伊之助と母」⑨     中西伊之助研究会幹事 水谷修

伊之助、
伏見工兵第十六大隊に

 伊之助は、1907年12月1日、工兵第十六大隊に入営した、と筆者は推定している。
 『工兵第十六大(聯)隊』によれば、第十六大隊は日露戦争中の1905年7月、満州の「遼陽」で編成され、1907年内地に帰還している。その時は大阪天王寺の捕虜収容所跡の仮屯営であった。そして、1908年伏見に移駐し、翌年4月、伏見に常駐するようになる。(伏見移転は1908年説と、1909年説がある。)
 伏見工兵第十六大隊は、現在の京都市伏見区の桃稜団地の場所であり、桃稜中学校は、兵営だった場所である。
 この工兵十六大隊は、1944年レイテ島にて1名の生還者もなく「玉砕」し、40年間の歴史を閉じるのであった。
 伊之助が入営した1907年当時、工兵第十六大隊は大阪天王寺の仮屯営であっただろう。そして伏見に移駐した。第十六師団の施設や軍道も第十六工兵大隊自体が建設に携わった。
 伊之助が工兵隊で汗して訓練した期間は、まさに伏見の第十六師団が建設・整備された期間であった。

1908年ごろ ありとあらゆる軍服を着た時代(左上6人は士官候補生) 『工兵第十六聯隊』から


伊之助の兵役期間

 『大衆』創刊号に「軍隊では面白い話があるが抜く」と書いている。軍隊時代のことは、上等兵になつてから、營倉二度、禁足無數を受けていることぐらいしか書いていない。作家である伊之助が軍隊時代のことを書いていれば、十六大隊移転のことなども明らかになっていたはずである。

『大衆』創刊号

 また、伊之助の兵役期間が何年かも明らかでない。京都府援護課では、兵籍簿を確認できなかった。
 当時は三年兵役だったのだが「一年志願兵」という兵役短縮システムがあった。
 一年志願兵の要件は、中学以上の卒業生であり、兵役中の費用(100円)を自弁することなどだった。
 一年志願兵であれば、よほどの「不良」でない限り、入営6カ月後には「上等兵」になることができたはずで、逆に一般の徴兵兵卒が「上等兵」になることは超難関であった。
 伊之助は上等兵になっているのだから「一年志願兵」だった可能性が高い。そして上等兵になってから、営倉送りにもなっている。
 伊之助は東京で、海軍兵学校入学を拒否され挫折し、社会主義の感化も受けている。軍国青年から社会運動家の素地を築きつつあったこのとき、兵役を短縮したいと思ったに違いない。
 そこに大成中学卒業証書と自弁費用(100円)があれば、「一年志願兵」を選択するのは当然であっただろう。ただし苦学生の伊之助には100円のお金は無かったはずだ。きっと母が工面したはずだと筆者は考える。結局、兵役期間は一年間だったのではないだろうか。当時の母は、伊万里か朝鮮にいて、きっと羽振りが良かっただろう、と推察している。

宇治架橋(1909年ごろか)座っている左が下山大隊長 『工兵十六大聯隊』から

※初期の伏見工兵十六大隊のこと、明治時代の兵役制度のことについて、研究・調査は深められていない。読者の皆様の情報提供や、ご教示を乞うものである。

人生の岐路には
いつも母の姿が


 退役後、伊之助は朝鮮に渡ることになるが、それも母親を頼ってのものであった。母親はすでに朝鮮で商売をしていたのだろう。
伊之助13歳のとき、母親が伊万里に嫁ぎ、親子は別れざるを得なかった。
 17歳で母を訪ねて伊万里へ向かい、対馬に渡った。
 18歳で海軍兵学校めざし上京する前に母親の激励を受けた。
 20歳で入営する前に母親と暮らした。
 20歳で退役した伊之助は、そののち母親をたよって朝鮮に渡った。

と、筆者は推察する。

青年伊之助の人生の岐路にはいつも、母親の姿がある。


(つづく)

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