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中西伊之助物語 「伊之助と母」⑤ 中西伊之助研究会幹事 水谷 修

伊之助と対馬 その一

 2006年8月、私たち研究会は「中西伊之助の足跡と対馬戦跡探訪の旅」にでかけた。日本・韓国・対馬の研究者の皆さんと交流もした。その対馬調査をふまえ「伊之助と対馬」について考えてみたい。

日露戦争のさなか
伊之助、対馬に渡る

 伊之助は『新興文学全集第二巻日本篇Ⅱ』(1928年平凡社)の「愛讀者への履歴書」で次のように述懐している。
 没落していった中西家にあって「十六の頃から、鐵道の機關車掃除夫になつたり、陸軍火薬製造職工などになつた。日露戦争の當時、對馬竹敷で職工をして、戦争の威怖を受けた。が、その『労により、金三拾圓』を賜つた。その時は全くうれしくてたまらなかつた。」
 伊之助は1905年3月には、東京神田の大成中学校の五年生編入試験に及第している。したがって、伊之助が対馬にいたのは、1904年から1905年2月の1〜2年間、満17歳から18歳の間だと思われる。
 日露戦争における「旅順攻囲戦」が1904年からで、「旅順陥落」が1905年1月のことである。ちょうどその時期、伊之助は軍事拠点であった対馬にいたのだ。しかし、対馬からも肉眼で見えたという日本海海戦(1905年5月)の時には、すでに対馬にいなかったことになる。
 伊之助は対馬の海軍修理工場にいた1年間に、キリスト教布教に奮闘し、初恋をし、「廃娼」運動に立ち上がった。対馬での一年間が、彼の人生の方向を決定する重要な時期になったであろう。
 伊之助が働いた「竹敷修理工場」は海軍要港部にあった。竹敷には1886年に水雷施設部、1893年に海軍防備隊、そして、1896年に海軍要港部が設置された。国内最初の「要港」が設置された。竹敷には、日露戦争、日本海海戦をにらんで、造船所など軍施設がつぎつぎ建設され、往時は人口2000人を突破し、飲食店・各種商店もひしめいたという。竹敷には「花街」もあった。
 対馬市竹敷は、いまは静かな漁村になっている。軍事拠点であった面影と言えば、現在、海上自衛隊対馬防備隊本部があるだけだ。私たち中西伊之助研究会の一行は同本部も訪問し、冷茶をいただき丁寧な挨拶を受けた。

対馬防備隊本部


伊之助の働いた
海軍要港部
修理工場跡

 石積み岸壁などの石造施設群(石護岸、石締切堤、石ドック)は戦争遺跡であるとともに、近代建築遺跡としても重要である。砲台跡などたくさんの戦争遺跡が手つかずのまま野ざらしになっていた。
 私たちは、地元の研究家であり「対馬の語り部」である小松津代志さんのご教示で、ドック跡地に辿り着いた。実は私たちだけで探した時は、狭い入り口の道が分からず辿り着けなかったのだが、小松さんの説明によって、翌日探し当てることができたのである。
 場所(対馬市美津島町竹敷深浦)は深く切れ込んだ入り江の奥の奥に位置し、水雷艇の隠し場所であり、格好の軍事的修理工場であったろう。
 跡地はいま「塩工場(株式会社白松の塩)」になっている。この塩工場でお土産までいただいた。
 このドックが、かつて伊之助が働いた「修理工場」であるに違いない。
 『赭土に芽ぐむもの』では「遠い孤島ーT州ー海軍根據地の修理工場では、NR戰役の際に頭の上へ砲彈が飛んで來る中にゐて、鑢でシヤフトを削つた。」と書いている。日本海海戦の前なのだから、対馬に砲弾が飛んで来たとは大げさだが、旅順陥落の時期まで、戦火の対馬で汗して働いたのだ。

伊之助
キリスト教の
伝道師となる。

 伊之助がクリスチャンになったのは対馬であった。
 『我が宗教観』(1925年、越山堂)には次のように記されている。
 「私の十七歳の時、私の勤めてゐた或る工場の同僚の中に、熱心なクリスチャンがあつた。それは、京橋教會の田村直臣牧師から洗禮を受けた石橋夫妻であつた。はじめて基督教を私に勵ましてくれた人は、この人であつた。」
 「その混亂する小さい港町の中で、石崎夫妻と、基督教會を建設しようと云ふのである。彼等の罪悪になづんでゐる靈魂を、どうしても救はなければならないと躍氣になつたのであつた。しかし、その小さい港町には、たしかに數千人の男女が住んでゐたが、基督教徒は、私と石崎夫婦とたつた三人きりであつた。」
 「私はそれから、勇ましく伝道に出かけた。路傍に立つて、辻説法をはじめた。がいつも、失敗した。」とある。
 伊之助たち3人は新たなキリスト教徒を獲得することができなかった。対馬で最初のキリスト教布教活動をしたのが伊之助たちであるようだ。
 厳原聖ヨハネ教会のホームページの「厳原聖ヨハネ教会の歩み(1905年7月〜)」によれば、「対馬に聖公会の宣教が初めてなされたのがいつかは正確にはわからないが、1905年以前から無教派の家庭集会という形で、キリスト教の集会が行われていたようである。厳原聖ヨハネ教会では、当時の主教エビントン師が来島された1907年7月をもって、聖公会の宣教開始としている。」とある。
 伊之助が対馬にいたのが1905年2月までなので、対馬での最初のキリスト教伝道者は伊之助と石崎夫妻なのだろう。

(つづく)

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