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中西伊之助物語 「伊之助と母」②     中西伊之助研究会幹事 水谷 修

「農夫喜兵衛」と
 祖父と安養寺

 伊之助の祖父ー宇右衛門は、1844年1月8日、宇治郡莵道村、長谷川藤五郎とやすの次男として生まれた。
 そして、1868(明治元)年1月15日、24歳で槇島村の中西家に養子として入った。
 莵道は宇治川の東、槇島は宇治川の西で、宇治川をはさんだ養子縁組であった。舟が重要な交通手段であった当時、川は道であり、川をはさんだ地域は「向かいどうし」でもあった。
 宇治市莵道の長谷川博一氏のお家の過去帳に1888(明治21)年1月2日命日『長谷川藤五郎』戒名『興譽隆勧禅定門』とある。伊之助の祖祖父である。長谷川家の現在の家屋は一部改築はされているが築200年以上である。宇右衛門はこの家で青少年期をおくったのであろう。長谷川家の檀那寺は安養寺である。


 小説『農夫喜兵衛の死』の「喜兵衛」のモデルは祖父の「宇右衛門」である。小説中の喜兵衛もまた安養寺が檀那寺である。
 小説では、日露戦争下「旅順陥落祝賀大会」で、安養寺の僧侶が挨拶し、政府批判の大演説をするくだりがある。安養寺は宇治市莵道に実在する。安養寺は一五三七年に開かれた四七〇年の歴史を持つ浄土宗の寺で、明治初年からの「廃仏毀釈」によって約一〇年間、住職不在の時期もあったとのことである。

「農夫喜兵衛」と
   祖父の死

 話はそれるが、宇右衛門の死について先に書くことにする。宇右衛門は1921(大正10)年5月24日、77歳の生涯を閉じる。
 戸籍には「紀伊郡堀内村に於て死亡」となっている。堀内村は、今の京都市伏見区で、京阪六地蔵駅の北西の、池の多い地域である。今日ほど池の埋立てが進んでいなかった当時はもっと遊水地が多かっただろう。小説で「喜兵衛」は池で入水死したことになっている。
 伊之助は一五・六歳の時に、家をとび出すのだが、伊之助が家を出て以降の約一八年間、宇右衛門の家に家族がだれもいなくなってしまう。60歳をすぎた小作農にとって一人暮らしは大変であっただろう。
 喜兵衛が亡くなって、2年後の1923年3月25日に書き上げた小説が『農夫喜兵衛の死』である。
 その献辞に次のように書かれている。
 「七十年一日の如く小作百姓として窮死したるわが祖父と、新しき農村の青年兄妹へ、この書をささぐ。  1923年3月25日下獄する前夜」


著者の献辞


 同小説は、借金にために娘を遊郭に身売りし、土地は取られるという貧窮生活を余儀なくされるなかでも、ひたすら黙々と土にまみれて生きる老農夫を描いている。
 また小説の中で、喜兵衛は、重労働と生活苦を強いられる農民の悲哀を、篤い仏教徒として「因縁づくだとあきらめ」る「運命観」で片付けようとする。


伊之助の
人生観、世界観は
祖母カナの影響

 伊之助の祖母ーカナは、1842年11月6日、久世郡槇島村、辻幸三郎の次女として生まれ、1864年3月5日、21歳で中西家に養子にはいった。
 『我が宗教観』(1925年、越山堂)で伊之助は次のように述懐している。
 「私は幼年時代に、生あるものに慈悲をかけよと教へられた祖母の言葉が、いつまでも、私の魂から去らなかった。後年、私が社会運動に投じ、労働運動に投じたのは、やはり私の(※印)この時代の感化が、自然に私をさうした運動に携はるべく促したのではないかと思はれる。」(原文は「私が」。筆者訂正)
 「お前のしたいやうにするがいゝ」という寛大な祖母であった。そして「祖母によって、人生観、世界観を教えられた。」と述べている。
 祖母カナは伊之助をお寺に頻繁に連れて行った。生家の隣が耕石庵で、よく出入りしていたようだ。この耕石庵が小説では「寂光庵」とされている。

耕石庵 宇治市槇島町


 伊之助は『婦人倶楽部』(1925年8月1日号)によせた「神の口より出づる言葉」というエッセイで次のように語っている。
 「私は、少年時代に、学校へ行くよりも、お寺へ詣る方が好きだつたのです。教師の無趣味な授業よりも、僧侶のロマンチツクな説法の方を好みました。篤い信者であつた私の祖母は、私を僧侶にしようとさへしたのでした。」
 槇島には、明治維新以前十数ヵ寺の寺院があったが、廃仏毀釈によって統廃合されて、現在は誓澄寺・妙光寺(浄土宗)、耕石庵(真宗大谷派)の三寺だけだ。なお中西家は浄土宗で、菩提寺は妙光寺である。


(つづく)

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