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【タイ】タイの農業政策の今後

連載「【タイ】コメ担保融資制度の政治利用の経緯と今後の行方」(全5回)の最終回では、今まで述べて来た過去の経緯を踏まえ、国際商品市場相場への影響も考慮の上、他国の農業政策とも比較しながら、今後のタイの農業政策の方向性について考察する。

 世界各国の農業政策をみると、対象となる作物や、財政支出の規模の違いはあっても、政策の変遷のプロセスには一定のパターンが存在している。よって、タイの農業政策の今後の方向性についても、タイ以外の国の事例をみていくことで、ある程度見通すことができると考えられる。各国の類似の政策を概観し、それらとの比較を通して、今後のタイの農業政策の行方を展望してみたい。


1.農業保護政策の分類

 自国における農作物生産の安定は、当該国にとって「食の安全保障」そのものである、しかし、新興国においては農村部の所得水準が特に低いことから、農家は社会的弱者と位置付けられ、農産物生産の担い手である農家は保護の対象とされているところが多い。

 タイのコメ担保融資制度も、経済的弱者である農家保護の視点がある。一般に、農家保護を通じた農業保護政策の手法は、「所得支持」、「価格支持」、「農業保険」の 3 つに大別されるので、順番に特徴を見ていく。

1)「所得支持」

 「所得支持」は、補助金を給付することにより農家の所得を直接的に向上させる政策である。米国やEUでは、生産面積実績等に基づき一定の金額を支給する直接支払い制度があり、代表的なものとされる(但し、米国では2014年の農業法で廃止されている)。

2)「価格支持」

 「価格支持」は、農作物の価格を高く維持することで間接的に農家の所得を向上させる政策である。その手法には、「政府による農作物の買い取り」「生産調整(減反)」「関税による外国産品からの保護」が含まれる。

 なお、タイのコメ担保融資制度の場合は籾米収穫時の過度な市場流入を抑えることによる籾米価格の低下を抑え、間接的に農家の収入増を後押しするのが狙いであったことは第1回で述べた通りである。よって、表面的には融資による農家の資金繰り援助策であるが、農作物の価格形成に介在する「価格支持」の一種であると分類される。

 ただ一般的には、農作物担保融資制度とは、作付時点で資金が不足する農家に対し、既に収穫済みの農作物を担保として差し入れることを要件として、肥料などの生産資材を購入するための資金を融資する短期融資(つなぎ融資)の仕組みのことを指す。

 担保評価額(融資単価)は、生産コストに相当する水準とするケースが多く、市場価格よりも低く設定されるのが一般的である。農家は、融資資金を用いて生産資材を購入して栽培を行い、収穫後に農作物を市場で売却することで得た資金で元利金を返済する。返済時点で市場価格が融資単価を下回る場合には、返済せず担保流れにし、事実上「政府による農作物の買い取り」とすることもできる。この点で、農家に対し一定の最低価格を保証する性格を持たせることのできる制度である。

 こうした制度は米国などでも採用されているが、タイでは農業保護策の一環として、コメの他、天然ゴムやキャッサバなどを対象として実施されてきた。

3)「農業保険」

 「農業保険」は、農家が保険料を支払う対価として、天候等の影響により農作物に損害が発生した場合に保険金を受け取る仕組みである。ただし、他の損害保険と異なり、損害の振れ幅が大きく保険料が高くなりがちである一方、農家の保険料の支払能力は低いことから、多くの国で政府が保険料の一部を補助する制度が採用されている。


2. 各国の「価格支持」との比較

1)各国で繰り返されてきた「価格支持」の歴史

 「価格支持」は、先進国を含め古くから世界各国で行われてきている農業政策である。タイのように農作物担保融資制度が実際に「価格支持」の方策として機能させる流れや、最低保証価格のレベルの引き上げが農家の生産意欲向上させた結果、過剰生産となり、政府在庫の膨張、在庫処分、財政悪化という一連のプロセスをたどった後、「価格支持」水準の引き下げを含む制度の再構築により安定化を図るという展開も、各国に共通している。以下、各国の事例をみてみよう。

 米国では、1929年に、タイと同様の、農作物を担保とする短期融資の公的な枠組みが世界に先駆けて開始された。この枠組みは世界大恐慌の影響でいったん停止されたが、1933年に再開されると、徐々に融資単価が引き上げられため、収穫した農作物を市場価格で売却せずに担保流れにするケースが増え、事実上の買い取り制度として機能するようになった。1950年頃からは、当初から担保流れにするつもりの融資利用者が急増し、農作物が市中に出回らなくなったことで、価格が高騰した。その結果、米国産農作物は価格競争力を失って輸出シェアを落とした。一方、国内で価格が高く支持されることで、農家の生産意欲は高まり、過剰生産を招き、政府の在庫は急増した。その間、補助金付き輸出などによる放出も試みたが、財政悪化には歯止めがかからず、1973年以降、融資単価は大幅に引き下げられ、それによる所得低下を直接的に補助金支払で補う「所得支持」が導入されていった。

 フランスでも、1936年に小麦を中心に、所定の買い取り単価を市場価格が下回った場合に政府が買い取ることで、国内価格を下支えする仕組みがスタートした。この仕組みはその後の EEC、EC、EU の共通農業政策(CAP)にも受け継がれているが、国内(域内)の価格が保証されたことで、農家の生産活動が促され、供給が国内(域内)需要を超えた。その余剰在庫は、1990年代に是正されるまで補助金付きで輸出され続けたが、国内価格が支持される一方で国際価格が低下し、内外価格差が拡大、輸出補助金が膨らんだ。それ以後は、内外価格差を縮小させるべく、買い取り単価の引き下げが行われ、引き下げ分の一部を「所得支持」で補てんする方向へと政策転換している。

 日本でも、政府により買い取られたコメが国内で売却された点では先に示したタイや先進国とは異なるが、農業保護という意味では米国や EU と同様に「価格支持」を採用してきた。戦時下の食料難の中、1942年に食糧管理制度という政府によるコメの買い取りが開始されたが、1960年代初頭には、買い取り単価が、農家の労働時間と都市労働者の賃金を組み合わせて算定されるようになったため、高度経済成長に伴う都市部の労働賃金の急上昇に合わせて、買い取り単価は引き上げられていった。一方、売渡単価は、買い取り単価と並行して上昇はしたものの、1963年以降 1982年まで買い取り単価を上回ることなく推移し、財政を悪化させた。また、食生活の変化でコメの消費が減少に転じたことで、在庫(古米)が膨張し、生産調整(減反政策)や在庫の廃棄処分も進められた。1995年には食糧管理制度は廃止され、コメの自主流通が始まり、コメの価格は下がり始めたが、その後も、民間在庫が積み上がった際には政府が「備蓄目的」と称して買い取りを行い、事実上価格を下支えし続けた。だが、今ようやく、安倍政権下で進められている農政改革の流れの中で、政府は買い支えを止める方向に向かって動き出しており、2014年秋以降、市中の需給を反映して日本のコメの価格は暴落している。日本国内では輸入されたタイ米よりも国産米の方が安くなったとして話題になったほどである。他の先進国と同様に、日本でも農業保護の軸足は、「価格支持」から「所得支持」へ移されようとしている。

 新興国でも「価格支持」は行われている。中国では1990年代、政府による高値での穀物買い取りが行われた。この制度は先進国の事例と同様に、農家の生産にインセンティブを与えることになり、中国国内の需要を超える生産量を生み出した。その結果、1990年代後半には政府の在庫が積み上がり、輸出に回されるようになった。しかし国際相場での安値売却は財政支出が膨らませる結果となった。1999年以降は、買取単価を引き下げ、先に示した先進国のケースと同様に「所得支持」を併用し、現在に至っている。

 インドでは、現在も「価格支持」による財政負担が問題視されている。同国では、1960年代半ば以降、政府による穀物の買い取りが行われ、買い取られた穀物は国内で公的分配システムを通じて低価格で配給されてきた。そうした中、1990年以降、農家の所得水準の向上を目的とした買取単価の大幅な引き上げに伴い、売渡価格が上昇したことで、国内での需給バランスが崩れ、政府の在庫が膨張した。これらの在庫はやはり輸出で放出されたが、国庫の財政悪化を招いた。その後、買取単価が引き下げられると、農家の生産意欲が減退し、政府在庫は減少、今度は輸入に転じる場面もみられたが、現在は、買取単価が再び引き上げられ、政府の在庫は膨らんでおり、潜在的にタイと同様の問題を抱えた状態にある。

2)タイの特殊性

 このようにタイを含む多くの国で「価格支持」が行われてきているが、タイの特殊性は、その財政負担が他国に比べてはるかに巨額へと膨れ上がったことである。タイ政府の損失累計は約8,000億バーツ(約2.5兆円)に達したとも言われているが、これは、2015年末のタイ政府債務残高(5兆7833億バーツ)の13.8%、2015年度のタイ政府歳出(約3兆バーツ)の26.7%に相当する。一方、日本の食糧管理制度下でのコメの政府買い取りによる損失(一般会計から食糧管理特別会計への繰入額で示される)は、ピークの 1974年から1976年までを累計で2兆5,032億円(現在の通貨価値に換算すると3兆289 億円)であり、これは当時の一般会計支出(1976年度)の 10.2%に相当する。また、米国で最初の農作物担保融資制度がいったん停止に追い込まれたときの損失は累計3億ドル(現在の通貨価値で表すと44億ドル)超といわれるが、大恐慌下にあった当時ですら政府支出(1932年度)の6.4%であった。今回のタイの財政負担が日本や米国と比べても高い水準であったことは明らかである。

 また、タイは世界最大のコメ輸出国の1つである為、コメ担保融資制度がもたらす影響が、タイ国内の問題にとどまらなかった点も、他の国のケースと異なっている。コメ担保融資制度向け資金の枯渇が懸念される中、タイ政府は資金繰りのために2013年7月以降、累増していた在庫の国外放出を加速させた。その結果、タイのコメ価格は競合するベトナム米の水準にまで大きく下落した。タイのコメ価格は重要な国際指標のひとつでもあり、在庫米の大量放出が、世界のコメ市況を大きく押し下げる要因となった。


3.今後のタイの農業政策の方向性

1)タイのコメ価格の下落と農家所得の低下

 2014年5月のクーデター以降、それまでに年間輸出量並に積み上がっていたタイ政府が保有するコメについて、タイ軍政による財政改善に向けた在庫放出により、2014年度のタイのコメの輸出量は、制度が開始される以前の水準をも上回る過去最高の1080万トンに達し、再びコメの輸出量で世界首位となった。

 しかし、コメ価格の下落は、国内の農家の所得の減少に直結する。現在、タイでは過度の家計債務が問題(2015年末時点で81%、2014年末85.9%、2013年末が82.3%)となっているが、農家も例外ではなく、多額の借金をして高額商品の購入に充てており、農家の資金繰りは悪化している。

 こうした中、2015年度のタイのコメの生産量は、長引く干ばつによる水不足を背景に作況が悪化し8年ぶりの低水準となり、コメ農家にとっては価格下落と収量減という二重苦を強いられることになった。平均的な農家は、全所得の7割程度を農外収入に依存しており、いまや農業収入だけに頼る農家は殆どないが、農村人口はタイの総人口の半数以上(2013年の統計で52.5%)を占めるだけに、農家所得の低下は、国内消費を冷え込ませ、タイ国内の景気の回復を遅らせる一要にもなっていると考えられる。

2)短期的には継続、中長期的にはタイの農業保護も抑制の方向へ

 今後、タイがどのようにして農業政策の梶取りをしていくのか注目されるが、報道内容等を通じて知る限りにおいては、事実上、2016年度も従来と同規模の農家保護策を継続するようである。

 2016年度の農業補助プログラムは、コメ作農家への融資と補助金を組み合わせたもので、予算規模は計1,270億バーツとなっている。特徴は、所得水準の低い地方への集中的な配分と、農産物の高品質化を意識したものになっており、所得が低いとされる北部と東北部のコメ生産農家が高級香り米であるホームマリを生産した場合、籾米の販売価格の90%に相当する1トン当たり9,500 バーツを融資し、さらにコメ保管への補助金(1,500 バーツ)、収穫と品質改善への補助金(2,000バーツ)と、全てのコメ農家を対象とした生産コストへの補助金(1トン当たり2,500 バーツ相当)を組み合わせると、1トン当たり計1万5,500 バーツの支援を受けることが出来る内容となっている。

 ただ、中長期的な農業政策の方向性については、各国の事例からも読みとれるように、農作物の価格形成における市場メカニズムの攪乱につながる「価格支持」は、財政的に継続が困難である。多くの先進国では、既に「価格支持」は廃止されているが、特に WTO 発足以降は、「価格支持」に代わる「所得支持」もまた、抑制の方向へ向かっており、農業保護レベルの削減義務を負っている。

 新興国(ここではタイを含む)は、今のところ、WTOでの削減義務で一定の配慮があるうえ、新興国の中には食糧が国内に十分に供給されない国も多いことから、補助金込価格での公的な買い取りや備蓄、逆ザヤでの国内食糧供給も容認されている。とはいえ、タイは、工業化の進んだ中進国であり、食糧生産については国内消費量以上を輸出している農業大国である。

 近年は、そうした食糧輸出国に対する、輸出補助金に相当する財政支出への風当りが、健全な国際市況の形成に悪影響を与えているとして、強まる傾向にあり、政府による農家所得を維持する手法の選択肢が狭まっている。こうした流れの中、米国では消去法的に、WTOのルールで削減対象となっていない農業保険を農業政策の主軸とする動きがあり、新興国でも類似の動きがみられる。

 世界的に農家保護の削減要求が強まる中で、タイの農業政策も中長期的には保護抑制の方向へ向かうことは間違いない。農業分野での高付加価値化がBOI(Board of Investment)による投資奨励政策にも盛り込まれているように、そのような環境下でも生き残ることができる自活した農業の推進が、これからのタイの農業政策の命題となろう。

以上

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