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石垣りんと戦後民主主義③

ここで、戦後民主主義の特質を示す第二のキーワードを提示したい。それは「相克」である。戦争を境に分かたれた死者と生者の相克に加えて、被害と加害の相克、平和憲法と日米安保体制の相克、さらに個人と家との相克。抜き差しならぬ矛盾を抱え込みながらも、それゆえにこそ強靭なしぶとさを持ち得た戦後民主主義の姿が、りんの詩にもあぶり出されている。

たとえば先に挙げた三篇の戦争詩を改めて読んでみよう。「挨拶」では、死者の存在と対比しながら、生き残った自分たちが「見きわめなければならないもの」「えり分けなければならないもの」が、「目の前に」「手の中に」あるという。「弔辞」では生き残った「わたしたち」が「眠っている」のに対して、死者である「あなたたち」は「苦しみにさめている」という。そして「崖」で「追いつめられて」「身を投げた女たち」は「まだ、一人も海にとどかない」というのだ。ここでの死者のイメージには、戦争に巻き込まれて非業の死を遂げた同胞たちの姿だけでなく、日本が引き起こした戦争の惨禍によって深く傷つき死んでいった他国の人々の姿も重ね合わされていると思われる。

戦後民主主義の抱える更なる「相克」は、そうした無数の犠牲の上に得られた自由と平和が日本に原爆を落とした当事者である米国の手によってもたらされ、なおかつ米国の強力な軍事力と東西冷戦を背景として維持され得たということだ。これは日本の戦後という時代に特有の相克であると思われる。1950年に始まる朝鮮戦争を契機に単独講和に踏み切って占領下からの独立を実現し、戦争特需によって急速な経済復興を成し遂げたことによって、その相克は更に根深く、戦後日本社会に刻み込まれることとなったのである。

政治的な相克だけではない。敗戦によってもたらされた戦後民主主義は個人の自由と平等を第一に掲げたものであったが、それで旧来の日本人の「家」意識が一掃されたわけではない。長い年月をかけて沈澱した集団的な深層意識は一朝一夕で変わるものではないのだ。10代の頃から銀行員として働き、自立する職業婦人の先駆けのように見えるりんもまた、「家」の桎梏から逃れられない運命を負っていた。「個」と「家」との相克は、彼女の詩の主要なモチーフとして随所に現れる。そのいくつかを例に挙げてみよう。
 
 家にひとつのきんかくし/その下に匂うものよ
 父と母があんまり仲が良いので/鼻をつまみたくなるのだ
 きたなさが身に沁みるのだ
 弟ふたりを加えて一家五人/そこにひとつのきんかくし
 私はこのごろ/その上にこごむことを恥じるのだ
 いやだ、いやだ、この家はいやだ。
    (「家」)
 
 やせて、荒れはてた母の手を
 ただひとつの希望のように握りしめて/歩き回る父、
 あのかさねられた手の中にあるものに
 また、私もつながれ/ひきずられてゆくのか。
                (「夫婦」)
 
 家は地面のかさぶた
 子供はおできができると/それをはがしたがる
    (中略)
 家は毎日の墓場/それだのに言う
 お前が最後に/帰るところではない、と。
    (中略)
 だから家を出ましょう、/みんなおもてへ出ましょう
 ひろい野原で遊びましょう
 戸じまりの大切な/せまいせまい家をすてて。
            (「家出のすすめ」)
 
社会制度や法律が変わっても、人間の深層心理に根づいた桎梏は容易に解きほぐれるものではない。りんの直面する「個」と「家」の相克は、当時の日本社会全体を包んでいたものであり、それは現代においても、かなり薄まりはしたものの、しぶとく根を張り続けている相克であると言えよう。
                            <つづく>

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