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連載日本史259 高度経済成長(1)

新安保条約の成立後、退陣した岸内閣に代わって、池田勇人が首相となって内閣を組織した。池田首相は「寛容と忍耐」をスローガンに掲げ、政権運営の軸足を経済に移し、国民所得倍増計画を発表した。経済成長自体は、既に50年代から始まっていたが、池田内閣はそれを更なる上昇軌道に乗せるために、官民挙げての経済優先政策を推し進めたのである。

池田勇人(Wikipediaより)

「所得倍増」というスローガンは大袈裟に聞こえるが、大蔵官僚を歴任した経済通の池田首相には十分に胸算用があった。平和憲法と日米安保体制の矛盾は政治面での軋轢を生んだが、経済的には軍事費を抑えて産業振興に資本を回すことに成功し、資本主義陣営における自由貿易を通じて大きな利益を上げ、1960年代の10年間にわたって年平均10%を超える高い成長率を維持することができた。公共事業への積極的な投資や財政投融資の活用、太平洋ベルト地帯への臨海工業地帯の建設など、政権が音頭をとって推進した事業も多い。それは自由主義経済という建前をとりながらも、国家の関与と利益誘導の要素がかなり強い経済運営であった。

高度経済成長期の国民所得の推移(jp.quora.comより)

日本が世界史的に見ても特筆すべき飛躍的な経済成長を遂げた要因はいくつか考えられる。産業構造の変化により、農村から都市へ流れた教育水準の高い豊富な労働力が、質の高い生産力を維持する原動力となった。また、日本人の高い貯蓄性向が資本の蓄積につながり、それが技術革新や設備投資に回ったことで更に生産性が向上した。国民全体の所得向上は、家庭電化製品や自動車などの耐久消費財の購入を促し、国内市場が拡大した。加えて、当時の国際情勢を背景として、原油や資源を比較的安価で輸入することが可能となり、1ドル=360円という固定相場制によって輸出面でも安定した利益を確保できた。さまざまな要因がプラスに影響し合い、史上まれに見る好景気が生み出されたのだと言える。

地方から都市部への人口移動(転入超過数)の推移(www.milt.go.jpより)

がむしゃらに働けば給料が上がる、給料が上がればほしいモノを買う、みんながモノを買えば企業が儲かる、儲かったお金を投資に回す、投資によって設備が充実し、技術が進歩し、さらに生産性が上がり、給料も上がる、上がった給料で新しいモノを買い、余ったお金を貯金する、それが銀行や郵便貯金を通じて企業に回り、また設備投資や技術革新が進む、国内だけでなく、貿易を通じて海外にも日本製品が次々と輸出される、稼いだ外貨で資源を輸入して加工して、それを輸出して更に利益を稼ぐ、政府は公共事業を次々と起こし、政治家は自分の地元に事業を誘致し、地方にも地益をもたらす、そうして企業からの税収が増えると、それを更に投資に回す――こんな感じで日本列島全体にお金とモノと資本と労働力が高速回転し続けている印象である。池田内閣の唱えた所得倍増計画は、当初の目標を大きく上回り、10年後には国民一人あたりの消費支出が2.3倍に達するという驚異的な結果をもたらしたのであった。

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