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連載日本史171 幕末(6)

1866年1月、京にある薩摩藩家老小松帯刀の別邸で、薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎の会談が、隠密裏に行われrた。仲介に立ったのは、土佐藩出身の坂本龍馬と中岡慎太郎。長い会談の末、旧敵同士の薩長は和解し、龍馬の率いる海援隊を仲立ちとして、長州が薩摩から西洋近代兵器を密かに購入する段取りもつけられた。ここにとうとう倒幕を現実のものとする一大連合が成立したのである。

薩長同盟主要人物(「世界の歴史まっぷ」より)

とはいえ薩長連合は、当初から倒幕を明確な目標にしていたわけではない。薩摩の国父である島津久光や、龍馬・中岡の出身藩である土佐藩は公武合体派であったし、この時点ではまだ、天皇のもとで徳川家を盟主とした雄藩連合政権を樹立する構想もあった。後世の我々が知っている明治維新以外の形での近代化もあり得たわけである。

村田蔵六<後の大村益次郎>(Wikipediaより)

同年五月、幕府は列強の圧力により改税約書に調印。輸入税が一律に引き下げられたことで自由貿易が促進され、外国に有利な貿易体制になったことで国内産業は打撃を受けた。不平等条約の問題点が顕在化し、江戸や大坂では社会不安から打ちこわしが頻発した。翌月には幕府は倒幕派が実権を握る長州藩に対して第二次長州征伐を強行したが、既に長州と同盟関係にあった薩摩は出兵を拒否した。薩長同盟を通じた兵器購入で近代的軍備を整えた長州は、高杉の奇兵隊を先駆けに次々と結成された諸隊を統合して新たな軍制を組織した村田蔵六(大村益次郎)らの活躍によって幕府軍を撃退した。結局、将軍家茂の病死によって長州征伐は中止となり、幕府の弱体化を更に世に示す結果となった。

徳川慶喜(jpreki.comより)

同年12月、徳川慶喜が十五代将軍に就任する。同月、孝明天皇が急死。頑固な攘夷派であり、前将軍家茂の義兄でもあった孝明天皇の死は、時代の変わり目を象徴する出来事であった。明けて1867年1月、明治天皇が即位。夏には薩摩藩と土佐藩の間で薩土盟約が交わされ、坂本龍馬は同郷の後藤象二郎に新政権の構想である船中八策を示した。そこには、大政奉還・二院制議会開設・官制刷新・外交整備・不平等条約改定・憲法制定・軍備増強・貨幣整備など、その後の明治政府の骨格となる政治方針が列挙されていた。龍馬は常に一歩先を見ていたのである。

大政奉還建白書写(高知城歴史博物館HPより)

船中八策をもとに大政奉還を進めようとする土佐藩に対して、薩摩・長州は芸州藩も巻き込んで武力倒幕路線へと傾いていく。幕府崩壊が現実のものとして見えてきた今、倒幕後の主導権争いも見越した同盟内部での路線対立が顕在化しつつあった。巷では社会不安がピークに達し、「ええじゃないか」の集団乱舞が全国的に大流行する。同年10月、土佐藩の山内豊信(容堂)が幕府に大政奉還を建白。最終決断は将軍慶喜に委ねられた。一方、薩長は朝廷に対し、討幕の密勅発令を要請。265年ぶりの政権交代を巡る攻防は、大詰めを迎えようとしていた。

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