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連載日本史68 院政期の文化(1)

12世紀の院政期の文化における最大の特徴は、貴族文化の空間的・身分的な広がりである。前代までは近畿地方に集中していた王朝文化は、院政期に入って地方に伝播し、貴族だけでなく、武士や庶民もその担い手となった。

三十三間堂の千体千手観音像(三十三間堂HPより)

建築では、岩手の中尊寺金色堂、福島の白水阿弥陀堂、大分の富貴寺大堂、鳥取の三仏寺奥院など、浄土信仰や密教の地方伝播とともに、全国で阿弥陀堂や山岳寺院が造営された。彫刻では、浄瑠璃寺本堂の九体阿弥陀如来像、蓮華王院(三十三間堂)の千手観音立像、大分の臼杵磨崖仏など、やはり浄土信仰や密教の強い影響がみられる。古くからの自然信仰に立脚した神祇信仰も盛んで、平清盛によって大規模な造営が行われた広島の厳島神社は、海にそびえ立つ大鳥居と、満潮時と干潮時で変化する印象的な風景によって知られ、世界遺産にも登録された。

大分・臼杵摩崖仏の一部(sekibutsu.comより)

浄土信仰の広がりの象徴が、熊野詣の流行である。熊野本宮大社・熊野速玉神社(新宮)・熊野那智大社の熊野三山は都と参詣道で結ばれ、特に白河・鳥羽・後白河・後鳥羽の四上皇は、何度も熊野詣を繰り返した。白河院は平安京の東の郊外にある白河の地に、九重塔を持つ法勝寺を建立。それに倣って歴代の上皇も次々と当地に寺院を建立し、それらを総称して六勝寺と呼ばれた。また、南の郊外には上皇の離宮である鳥羽殿が造営され、白河と並ぶ院政の拠点となった。

熊野本宮大社(和歌山県公式観光サイトHPより)

度重なる熊野詣や寺社建立には、当然ながら莫大な費用がかかる。その財源となったのは、院の知行国や公領を管理する国司からの納税、さらに院領荘園から得られる利益である。浄土信仰は貴族から庶民にまで広がり、一般民衆も救いを求めて繰り返し寺社参りに精を出すようになったのだが、その豪華な寺社を建立するために、民衆は搾取され続けていたわけで、それでもなお「信じる者は救われる」のだろうかと疑問を抱いてしまう。しかしながらこのように貴族から庶民までを巻き込んだ、いわば階級を超えた共同幻想のおかげで院政期の文化が空間的・身分的な広がりを獲得したことを思えば、やはり信仰のパワーは大したものだと感服せざるをえないのである。




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