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連載日本史220 大正デモクラシー(1)

大正期には、労働運動・農民運動・社会主義運動・女性解放運動・部落解放運動など、多岐にわたる社会運動が起こった。1912年に鈴木文治らが労働者の地位向上を目指して15名で立ち上げた友愛会は、1919年には3万名の組合員を擁する大日本労働総同盟友愛会へと成長していた。八時間労働制や普通選挙実施を要求して第1回メーデーを主催した友愛会は、1921年に日本労働総同盟と改称。ロシア革命の影響を受けて、労使協調路線から階級闘争路線へと転じていった。

大日本労働総同盟友愛会(友愛労働歴史館HPより)

1916年、東大教授の吉野作造が雑誌「中央公論」に寄稿した論文で「民本主義」を唱えた。これは天皇主権を否定するものではないが、主権者が民衆の利益や幸福や意向を重視することが大切だと述べたもので、国家を法人とみなす美濃部達吉の「天皇機関説」とともに、大正デモクラシー運動に大きな影響を与えた。

民本主義と天皇機関説(www.try-it.jpより)

1919年から20年にかけて、普通選挙の実施を要求する普選運動が盛り上がった。1万人以上が参加する集会やデモが繰り返されたが、原敬内閣の実施した選挙法改正は小選挙区制の導入と納税資格の緩和にとどまり、普通選挙は時期尚早として拒否された。立憲政友会の政党内閣である原内閣は、教育の改善・交通機関の整備・国防の充実・産業の奨励を四大政綱に掲げて積極政策を推進したが、疑獄・汚職事件が相次いで発覚し、それに反感を抱いた青年に首相が刺殺されるという事件が起こった。蔵相だった高橋是清が首相の座を引き継ぎ、ワシントン会議関連の諸条約の調印は高橋内閣のもとで行われた。

原敬内閣(「世界の歴史まっぷ」より)

1920年代、戦後恐慌とともに、農村での小作争議が急増した。大戦景気の恩恵は農村には及ばず、戦後の不況の影響で小作農民の困窮がいっそう進んだためである。杉山元治郎や賀川豊彦らは神戸で日本初の全国的な農民組織である日本農民組合を結成し、各地の小作争議を指導した。賀川は生活協同組合運動にも取り組み、現在の日本最大の生協であるコープこうべの前身に当たる神戸購買組合も立ち上げている。

大原美術館(岡山観光WEBより)

企業の社会的責任として、社会事業に取り組んだ実業家もいる。岡山の倉敷紡績を大企業に育てた大原孫三郎は、1919年に大原社会問題研究所を大阪に設立。さらに大原農業研究所、倉敷労働科学研究所、総合病院、大原美術館などを次々と設立した。社会問題研究所の初代所長である高野岩三郎は後に戦後の民間憲法草案の作成に尽力し、GHQの憲法草案にも影響を与えたといわれる。また、大原美術館は、現在も日本屈指の美術館として多くの観光客を集めている。大戦景気で儲けた金を遊興街で湯水のように使い果たした成金たちに比べると、なんと有意義な財の社会還元であろうか。

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