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トマトと楽土と小日本 ~賢治・莞爾・湛山の遺したもの~⑦

賢治が享年37歳にして壮大な未完の生涯を終えた1933年、日本はリットン調査団報告に基づいて満州からの撤退を求める国際連盟決議に反発して連盟を脱退。自ら対話の道を閉ざし、国際的孤立を深めつつあった。翌年、日本はワシントン海軍軍縮条約を破棄し、歯止めなき軍備拡大によって財政状況を更に悪化させ、国民生活は窮乏を極めていく。1936年には二・二六事件の勃発、日独防共協定の成立と、戦争に抗する言論への圧迫は更に強まり、日本は湛山が危惧した自滅的な帝国主義ファシズムへの道を突き進んでいった。

1937年、盧溝橋事件に端を発した日中戦争は、局地戦で終結できたはずの機会を何度も逃し、軍部の勢力拡大論者とそれに追随する政府・メディア・世論に引きずられるように戦火を大陸全土へと広げていく。戦線不拡大を主張した石原莞爾が、満州事変の経緯を盾とした主戦派によって論破され、やがて東条英機を中心とした軍部中枢から疎んじられて表舞台から退くことになるのは、先に述べた通りである。

強まる言論統制下において、かつての鋭い政府批判は抑えながらも、湛山は経済的観点からの国際協調主義を説き続けた。資源を持たない日本が広大な植民地所有を前提としたブロック経済路線を進むのは非現実的であり、英米との協調に基づく自由貿易路線に活路を見出すべきだという彼の主張は、あくまで実益を重んじるプラグマティズム(実用主義)に基づくものであり、それゆえに偏狭なナショナリズムに憑かれた「非国民狩り」の網をすり抜けることができたのだと思われる。

1941年12月、湛山が恐れていた英米との衝突が遂に現実のものとなった。真珠湾攻撃とマレー半島上陸を皮切りとする太平洋戦争の勃発である。当初は奇襲で連勝を得た日本軍も、翌々年の1943年初頭には連合国との圧倒的な物量差に屈して占領地からの撤退を重ねるようになっていた。日本の敗戦は不可避とみた湛山は、来たるべき戦後の国家再建と国際社会復帰に向けての青写真を描き始める。それはやはり、湛山ならではの透徹した現状認識と、徹底したプラグマティズムに基づくものであった。

首都東京が大空襲にさらされ、敗戦が見えていながら降伏に踏み切れない日本が、破れかぶれの特攻戦へと踏み込んだ1945年の春、ひとりの若い兵士が出撃直前に残した遺書の中に、宮沢賢治の童話『烏の北斗七星』について言及した箇所がある。少し長い引用になるが、御容赦いただきたい。
 
『僕の最も心を打たれるのは、大尉が「明日は戦死するのだ」と思いながら「私がこの戦に勝つことがいいのか、山烏の勝つ方がいいのか、それは私にはわかりません。みんなあなたのお考えの通りです。私は私に決まったように力いっぱい戦います。みんな、みんな、あなたのお考えの通りです」と祈る所と、山烏を葬りながら、「ああマジエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば私のからだなどは何べん引き裂かれてもかまいません」という所に見られる「愛」と「戦」と「死」という問題についての最も美しい、ヒューマニスティックな考え方なのだ。
……我々がただ、日本人であり、日本人としての主張にのみ徹するならば、我々は敵米英を憎みつくさねばならないだろう。しかし、僕の気持ちは、もっとヒューマニスティックなもの、宮沢賢治の烏と同じようなものなのだ。憎まないでいいものを憎みたくない、そんな気持ちなのだ。正直な所、軍の指導者たちの言う事は単なる民衆煽動のための空念仏としか響かないのだ。正しいものには常に味方をしたい。そして不正なもの、心驕れるものに対しては敵味方の差別なく憎みたい。好悪愛憎、すべて僕にとって純粋に人間的なものであって、国籍の異なるというだけで人を愛し憎むことはできない。もちろん国籍の差、民族の差から理解しあえない所が出て、対立するならまた話は別である。しかし単に国籍が異なるというだけで、人間として本当は崇高であり美しいものを尊敬する事を怠り、醜い、卑劣な事を見逃す事をしたくないのだ。
……世界が正しく、よくなるために、一つの石を積み重ねるのである。なるべく、大きく、すわりのいい石を、先人の積んだ塔の上に重ねたいものだ。不安定な石を置いて、後から積んだ人のも、もろともに倒し、落とすような石でありたくないものだと思う。出来る事なら我らの祖国が新しい世界史における主体的役割を担ってくれるといいと思う。また我々はそれを可能ならしめるように全力を尽くさねばならない。しかし現在の我国の国内情勢には、まだまだ旧いものが振るい落とされずに残っている。何か心許ないものを感じさせられる。戦に勝ち抜こう、頑張り抜こうという精神ばかりではだめだ。その精神の担う組織、生産関係を科学の命ずる所によって最も合理的にする事こそ必要なのではなかろうか。 (1945年4月 沖縄海上にて戦死した昭和特攻隊員・佐々木八郎の手記より)』
 
彼の悲痛な遺書の中に、「未完」に終わった宮沢賢治の仕事と、大戦中の長い暗黒時代にあっても節を屈せずに日本の進むべき道を模索し続けた石橋湛山の仕事とを架橋するものが見いだせるのではなかろうか。それはすなわちファクト(事実)とデータ(数値)に基づく合理的精神に裏付けられたヒューマニズムである。

湛山は特攻作戦に対しても批判的だった。彼の合理的精神から見れば、安易な精神論で前途ある若き兵士たちに無益な死を強いる指導者たちは、著しく非合理かつ無責任な姿勢を露呈しているように思えたことだろう。佐々木隊員の遺した言葉は、そうした指導者の下で尊い命を棄てざるを得なかった若者が、それでもなお後世に生きる者たちのために一つの石を積み重ねようとした誠実さの結晶である。そこにこめられた、精神のみに頼るのではなく科学的に思考し、合理的に行動することが必要なのだ、というメッセージは、現代における社会変革・平和構築の過程においても、肝に銘じておくべきことであろう。

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