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連載日本史189 西南戦争(1)

矢継ぎ早に改革を進める明治政府に対し、不満を抱く農民や士族たちは、各地で一揆や反乱を起こした。1873年から1876年にかけて、徴兵令反対一揆(血税一揆)・学制反対一揆・地租改正反対一揆が次々と起こり、政府は地租を当初の3%から2.5%に軽減せざるをえなくなった。明治六年(1873年)の政変で下野した江藤新平は、翌年、故郷の士族を率いて佐賀の乱を起こした。乱はまもなく鎮圧されたが、かつて政府の要職に就いていた江藤が公然と反旗を翻したことは、明治政府にとって大きな衝撃であった。

江藤新平(Wikipediaより)

1876年に廃刀令が出され、秩禄処分が決定されると、士族は精神的にも経済的にも追いつめられていく。苗字帯刀は武士の特権だったのだが、戸籍法で全国民が姓を持つようになり、帯刀は文明国にふさわしくない旧習として退けられ、士族は重要なアイデンティティを失った。ざらに秩禄処分によって国家財政の負担となっていた士族への手当を廃止され、経済的に窮した士族たちは徒党を組んで各地で暴発した。前原一誠を中心として山口で起こった萩の乱、福岡で起こった秋月の乱、熊本で起こった敬神党(神風連)の乱などがそれである。これらの反乱は、徴兵制と軍管区制によって整備された各地の陸軍によって鎮圧された。軍事的にも、武士の時代はとっくに過ぎ去っていたのである。

士族の反乱(www.kodomo.co.jpより)

明治六年の政変で下野した西郷隆盛は帰郷し、鹿児島で士族の軍事教練の学校である私学校を創設した。これは必ずしも反乱を企図したものではなかったが、政府の目には危険勢力に映ったことだろう。実際、日に日に増大する士族たちの不満は、私学校を核として凝集しつつあり、西郷本人の意図がどうであれ、彼を反政府勢力のシンボルとして担ぎ上げようという動きが高まった。良くも悪くも、西郷はカリスマ性が強すぎたのだ。

私学校を反政府勢力の拠点とみた政府は、鹿児島の陸軍施設から火薬類を密かに搬出し大阪に移した。弾薬が私学校派士族の手に渡るのを恐れたためである。これに怒った私学校派は陸軍の火薬庫から弾薬を強奪。私学校派士族を核として、不平士族三万人からなる西郷軍が組織された。相互不信が内戦への端緒を開いたのだ。1877年2月、西郷軍は熊本鎮台の本拠地である熊本城を襲撃。日本最後の内戦である西南戦争が始まった。

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