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連載日本史181 明治維新(5)

学制・徴兵令・地租改正と大きな改革が続いた1872年から1873年にかけては岩倉使節団が欧米視察の大旅行に出ていた時期でもあった。右大臣の岩倉具視団長をはじめ、大久保利通(大蔵卿)・木戸孝允(参議)・伊藤博文(工部大輔)ら政府の中枢メンバーを擁する大使節団は、横浜から太平洋を渡ってサンフランシスコ、そこから大陸を横断してボストン、さらに大西洋を渡ってロシアを含めたヨーロッパ諸国を次々と回り、地中海からスエズ運河を抜けてインド洋に達し、シンガポール・ベトナム・香港・上海を経て長崎・神戸に至るという一年半以上に及ぶ行程を踏破した。政府要人のみならず留学生も多数随行しており、後に津田塾大学の創始者となる津田梅子も留学生のひとりとして参加していた。欧米の政治・社会・文化に直に触れた経験は彼らの意識を少なからず変えたと思われる。それは後に、留守政府を預かっていた残留組との意識のギャップによる軋轢を生むことになる。

岩倉使節団の中心メンバー(「世界の歴史まっぷ」より)

岩倉使節団不在の間、留守政府の中心となっていたのは、三条実美・西郷隆盛・井上馨・大隈重信・板垣退助・江藤新平らであった。主力メンバーの一部を欠いた状況で、重要施策を次々と実現していったパワーは並大抵のものではない。それだけに、自分たちが新政府の屋台骨を支えてきたのだという自負も強かったことだろう。学制・徴兵令・地租改正、いずれにも反対一揆が起こり、彼らはその対応にも追われてきた。華やかな使節団の帰国組である大久保・木戸・岩倉・伊藤らとの意識のギャップには、そうした経験の違いから生じる感情面でのズレも含まれていたことだろう。

岩倉使節団の航路(www.kodomo.go.jpより)

当時における海外滞在経験の有無の違いは大きい。薩長が明治維新の中心たり得たのは、早くから海外に目を向け、幕末には密航によって留学生を送り出してまで次世代の指導者に海外体験を積ませていたというのも一因であると思われる。長州の伊藤博文や井上馨、薩摩の森有礼も、そうした留学生のメンバーに加わっており、後に総理大臣・大蔵大臣・文部大臣などの要職に就いている。逆に言えば、そうした機会に恵まれなかった者たちから見れば不公平感を覚えたとしても不思議ではない。帰国組と残留組の確執は、対外政策に関する主張の衝突において顕在化した。いわゆる征韓論争である。

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