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連載日本史243 占領政策(1)

1945年9月2日、東京湾に浮かぶ米国戦艦ミズーリ号の船上で、連合国に対する日本の降伏文書の正式調印が行われた。以降、1951年9月のサンフランシスコ平和条約が成立するまでの6年間、日本は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による占領下に置かれることになる。連合国とは言っても、事実上は米国軍の単独占領で、日本政府を媒介にした間接統治であった。GHQの最高司令官はダグラス=マッカーサー。日本の非軍事化と民主化を基本方針としたGHQの占領政策が、今日の日本につながる大改革となったのである。

マッカーサーと昭和天皇(Wikipediaより)

まずは徹底した非軍事化である。陸海軍の武装解除と解体、戦犯容疑者の逮捕や公職追放、軍需産業の禁止などの政策が次々と断行された。一方、昭和天皇と会談したマッカーサーは、その人柄に信頼を寄せるとともに、円滑な日本統治のためには天皇の存在は不可欠であると判断した。二人の会談の際の写真では、正装で直立不動の天皇の横に立つマッカーサーのリラックスした様子が、二人の力関係を象徴するものとして、多くの日本人に衝撃を与えた。1946年1月には、天皇自らが人間宣言を出して自らの神格化を否定するとともに、全国各地への巡幸を行った。現人神(あらひとがみ)として軍国主義の頂点に立つ存在から、新たな時代の人間天皇へのイメージチェンジを図ったのだ。

五大改革指令と政府の対応(「山川 詳説日本史図説」より)

民主化政策については、マッカーサーは幣原喜重郎首相に示した五大改革で秘密警察の廃止・労働組合結成の奨励・婦人解放・学校教育の自由化・経済の民主化などを要求した。特高警察は解体され、治安維持法は廃止され、政治犯は釈放された。学校では、戦時中の軍国主義教育が廃され、民主主義の理念に基づく教育が求められた。1945年の夏休み明けに登校した生徒達が最初に行った作業は、従来の教科書の軍国主義的記述の部分を墨塗りで消すことであった。同年12月に公布された衆議院議員選挙法改正により、20才以上の男女に選挙権、25才以上の男女に被選挙権が保障された。翌年の総選挙では定数466名に対して2770名もの立候補者があり、女性の立候補者も78名に達し、うち39名が当選して日本初の女性代議士となった。政党の数も363に上ったという。翼賛選挙で抑圧されてきた政治参加への渇望が一気にあふれ出したのである。

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