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連載日本史197 日清戦争(1)

1875年の江華島事件と翌年の日朝修好条規締結以降、日本と朝鮮の関係は非常に不安定な状態にあった。1882年には国王高宗の父である大院君が、高宗の妻である閔妃の一族を追放しようとしてクーデターを起こす。壬午軍乱である。開国・親日派の閔氏に対して、大院君は強硬な攘夷派であり、親清派であった。日本公使館も襲撃を受けた。だが軍乱は清の出兵によって鎮圧され、翌年には日朝間に済物浦条約が結ばれて朝鮮は日本に賠償金を支払い、日本は公使館の守備兵を漢城(ソウル)に駐留させることを認めさせた。クーデターは失敗に終わったが、この事件を契機に閔氏を中心とする朝鮮政府は日本と距離を置き、清への依存を強めるようになったのである。

壬午軍乱関係図(帝国書院「図説日本史通覧」より)

一方、改革勢力の金玉均ら独立党は親日派であり、日本の自由党や日本公使館の援助を受け、1884年の清仏戦争での清の敗北を好機としてクーデターを起こした。甲申事変である。これも清の援軍によって鎮圧され、日清関係は極めて悪化した。朝鮮内部の保守派と改革派の争いが、清と日本の代理戦争の様相を呈し始めたのである。翌年、伊藤博文と清の李鴻章の間で天津条約が結ばれ、両国の朝鮮からの撤兵と、今後の出兵における事前通告の義務が定められた。

甲申事変関係図(nozawanote.g1.wrea.comより)

こうした朝鮮・清との軋轢を背景に、日本では西欧列強に肩を並べるために非近代的なアジア諸国を見限るべきだという論調が強くなる。1885年に発表された福沢諭吉の「脱亜論」はその象徴であろう。旧弊にとらわれて近代化をなし得ない国は植民地にされても仕方がないというのだ。西欧に対するコンプレックスが、アジア諸国への強硬な態度へと転化されたきらいもある。

「脱亜論」が掲載された時事新報(www.asahi.comより)

甲申事変以降、朝鮮では保守・親清派の閔氏を中心とした事大党政権が主導権を握り、1889年には日本への米穀の輸出を禁じた防穀令を発令する。日本政府の抗議によって翌年には撤回されたものの、日朝関係は更に冷え込み、背後にいる清との軍拡競争も激化した。

朝鮮から日本への米と豆の輸出額推移(「カイゼン視点から見る日清戦争」より)

1894年、朝鮮で東学の信徒を中心に、減税と排日を要求する農民の反乱が起こった。甲午農民戦争(東学党の乱)である。東学は西学(キリスト教)に反対する民族宗教で、創始者は崔済愚。反乱は一時は朝鮮南部を制圧する勢いに達した。清は朝鮮政府の要請を受けて出兵。天津条約に従って日本にも通告がもたらされた。伊藤内閣は陸奥宗光外相の主張で直ちに出兵を決定。農民軍が政府と和解した後も両国軍は撤兵せず、一触即発の事態となった。一度ふりあげてしまった拳は、なかなか下ろせないものなのだ。

甲午農民戦争から日清戦争へ(「世界の歴史まっぷ」より)

朝鮮で起こった一連の事件の名称を並べてみると、それらが全て干支に基づいているのがわかる。日本がほとんどの事件を元号を冠して呼んでいるのと対照的である。古くは豊臣秀吉の朝鮮出兵も、日本では文禄・慶長の役だが朝鮮では壬辰・丁酉倭乱である。元号が更新的時間感覚の表象であるとすれば、干支は循環的時間感覚の表象であると言える。日朝の歴史認識の違いには、こうした時間感覚の違いも微妙に影響しているような気がするのだ。

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