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連載日本史235 第二次世界大戦(1)

1938年、ナチス=ドイツは露骨な対外侵略に乗り出し、オーストリアを併合し、翌年にはチェコスロバキアにも触手を広げた。日本軍は満州・モンゴル国境のノモンハンでソ連軍と衝突したが大敗を喫し、しかもその最中に同盟国のドイツがソ連と不可侵条約を結んだため、衝撃を受けた平沼騏一郎首相は「欧州情勢は複雑怪奇」との言葉を残して内閣総辞職した。1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻。英仏がドイツに宣戦布告し第二次世界大戦が始まった。ソ連軍も西進し、ポーランドはドイツとソ連に分割占領された。独ソ不可侵条約は開戦のための布石だったのである。

第二次世界大戦関係地図(quizlet.comより)

平沼内閣の後を受けた阿部・米内内閣はいずれも大戦には不介入の方針で臨んだが、翌年六月に独軍がパリを占領すると、近衛文麿がナチスに倣った強力な指導体制を目指す新体制運動を始め、ドイツとの軍事同盟締結を推進しようとする。勝ち馬に乗ろうというわけだ。翌月、第二次近衛内閣が成立し日独伊軍事同盟調印。同時に日本軍は仏領インドシナへの侵攻に乗り出す。中国戦線における援蒋ルートを断ち、併せて南方の資源を確保しようとしたのだ。これに対抗して米国は日本への鉄鋼輸出を禁止し、両国の関係は更に悪化した。

援蒋ルート(manareki.comより)

同年10月、首相を総裁とする大政翼賛会が成立した。これは戦争遂行のための官製の上意下達機関であり、後に大日本産業報国会・大日本翼賛壮年団・婦人会・青少年団・部落会・町内会・隣組など、あらゆる団体を傘下に収める国民総動員組織となった。戦争の大義名分として「大東亜共栄圏」の構想が掲げられたが、戦場となったアジア諸国から見れば、単なる侵略戦争に過ぎなかった。

国家総動員法(jugyo-jh.comより)

1939年には国家総動員法に基づく国民徴用令によって一般国民の軍需産業への動員が行われ、軍事最優先の経済統制が敷かれた。1940年には砂糖やマッチなどの切符制や、農村での米穀供給出制が実施され、翌年には米が配給制になり、衣服も切符制になった。小学校は国民学校に改められ、国家主義に基づく皇国民の錬成教育が推進された。近衛が提唱した新体制とは、国民生活の全てを戦争へと供する翼賛体制にほかならなかったのである。

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