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バルカン半島史㉒ ~露土戦争~

クリミア戦争の敗北によって一度は挫折したものの、ロシアの南下への執着はやまなかった。冬になるとほとんどの港が氷で閉ざされる大国にとって、不凍港の確保は長年の悲願だったのだ。皇帝アレクサンドル2世の下で近代化を進めたロシアは、1877年、バルカン半島の正教徒保護を口実としてオスマン帝国に宣戦布告。開戦と同時に半島に攻め込み、翌年初めにはアドリアノープルを占領。首都イスタンブールに迫った。ロシアの猛攻に屈したオスマン帝国は、やむなく講和に踏み切り、サン・ステファノ条約でロシアの黒海沿岸の領地拡大、セルビア・モンテネグロ・ルーマニアのオスマン帝国からの独立、ブルガリアの自治などを認めたのであった。

ロシアの提唱するパン・スラブ主義に対してパン・ゲルマン主義を唱えてバルカン半島進出を図るオーストリア・ハンガリー帝国は条約の締結に強く反発し、ロシアの勢力伸長に危機感を持つ英国は、クリミア戦争後のパリ条約に違反するとして条約の破棄を求めた。ここで仲介を買って出たのが、普仏戦争に勝利して統一を成し遂げたプロシア・ドイツ帝国の宰相ビスマルクである。彼は双方に利害を持たない「公正な仲買人」と自称してベルリン会議を主催。ロシア・オーストリア・英・仏・伊・オスマン帝国の代表を一堂に集め、巧みな外交交渉でベルリン条約の締結にこぎつけたのである。

サン・ステファノ条約を修整する形で成立したベルリン条約ではセルビア・モンテネグロ・ルーマニアの独立は認められたもののロシアの獲得した領土は縮小され、ロシアの保護下にあったブルガリアの領土も三分の一に縮小、ボスニア・ヘルツェゴヴィナはオーストリアの統治下に置かれ、英国はオスマン帝国からキプロスを得てエジプト・中東支配の足場を確保した。英墺とロシアの戦争は回避されたが、露土戦争で得たロシアの権益は後退し、オスマン帝国のバルカン半島への影響力も低下した。「公正」の旗印を掲げながらも、相対的に英墺有利な方向へと導いたビスマルクの狡猾な外交交渉であったと言える。

鉄血政策を旨としたビスマルクの外交は、軍事力をちらつかせながらも、直接的な戦争を極力避け、交渉による勢力均衡を基本として国際政治の安定を図るものだった。もちろん自国ドイツの権益はしっかり確保した上でのことである。ベルリン条約は、そんな彼の巧妙な外交戦術の粋を尽くしたものだったと言えよう。しかし、結果的にバルカンでの勢力伸長を阻まれたロシアにはドイツへの不信感が残り、オーストリアの支配下に置かれたボスニア・ヘルツェゴヴィナに少なからず存在するスラブ系住民の反発は強まった。バルカン半島を巡る新たな火種を残したまま、時代は19世紀末から20世紀に向けて、帝国主義から世界大戦への道のりを進み始めるのである。

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