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連載日本史164 開国(2)

安政五年の政変で井伊直弼が大老の地位に就くまでの背景には、将軍継嗣問題も絡んだ政権内での路線対立があった。指導力に優れた一橋慶喜を次期将軍に推す徳川斉昭・松永慶永・島津斉彬らのグループは雄藩連合路線による国力強化を唱えたが、家格を重視する立場から紀伊藩主の徳川慶福(後の家茂)を次期将軍に推す井伊直弼らのグループは幕府独裁路線に傾いていた。一橋派は薩摩藩出身の篤姫を将軍家定の正室に送り込み、慶喜の擁立を図ったが、米国との通商条約締結を巡って幕閣の意見は分裂。混乱の中で大老に就任した井伊直弼は、勅許を得ないままの条約締結に踏み切り、一橋派を政権内から一掃したのである。

井伊直弼(r-ijin.comより)

1858年に締結された日米修好通商条約は、相手方の米国に領事裁判権を認めた上、日本が関税自主権を持たないという不平等条約であった。これはアロー戦争後に列強が清と結んだ天津条約にも共通する要素である。条約では先の和親条約で開港した箱館に加えて、神奈川・兵庫・新潟・長崎を開港し、下田は閉じるということになった。神奈川は横浜、兵庫は神戸が実際の開港地となった。幕府はさらに英・仏・蘭・露とも同様の条約を次々と締結。安政の五ヶ国条約と呼ばれたこれらの不平等条約は、明治期を通じて近代日本の桎梏となった。軍事力を背景にした列強からの圧力があったとはいえ、勅許も得ないままに条約締結を強行した井伊大老の独断専行に対して批判の声が上がったが、直弼はそれを力で抑え込んだ。安政の大獄の始まりである。

日米和親条約と日米修好通商条約(コアジサシ on Twitter.より)

徳川斉昭は蟄居、一橋慶喜・松平慶永らは謹慎、薩摩に戻った島津斉彬は病死、長州の松下村塾で攘夷倒幕思想を説いた吉田松陰や、慶喜擁立に奔走していた越前藩士の橋本左内は死罪になっている。直弼による、徹底した反対派の粛清である。同年に将軍家定が病死し、十四代将軍には直弼の推す慶福(家茂)が正式に就任した。直弼率いる南紀派、すなわち幕府独裁路線派が、完全に権力を掌握したのだ。

安政の大獄で処分を受けた人々(「世界の歴史まっぷ」より)

直弼の独断専行に異を唱えた人々も、必ずしも開国そのものに反対していたわけではなかった。頑固な攘夷派であった徳川斉昭はともかくとして、有力な幕臣や雄藩のリーダーたちは、鎖国政策を続けるのはもはや不可能であることを悟ってはいた。朝廷は孝明天皇を筆頭に攘夷派が多く、京都には尊王攘夷派の志士たちが集結しつつあったため、勅許を得るための交渉は難航したであろうが、時間をかければ説得は不可能ではなかったはずである。しかし一方で、アロー戦争における清の惨状を知り、欧米列強からの圧力に直接さらされていた直弼はじめ幕府首脳には、そうした余裕がなかったのも事実である。誰かが決めねばならない局面において、大老の直弼がその責を負ったこと自体は、仕方のないことだと思われる。問題はその後の反対派の粛清であった。これが結果的には人々の強い反発を招き、倒幕への勢いを加速させることとなったのである。

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