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連載日本史107 室町時代の対外関係

1368年、中国では朱元璋(洪武帝)の下、元に代わって明が覇権を握った。朝鮮半島では、高麗に代わって、1392年に李成桂が(李氏)朝鮮を建国した。こうした東アジア情勢の大きな変動を受けて、室町時代の日本の対外政策は大いに揺れた。

15世紀のアジア(「世界の歴史まっぷ」より)

三代将軍義満は明との朝貢関係を前提に勘合貿易を行い、倭寇を鎮圧し、朝鮮とも国交を開いたが、四代将軍義持は朝貢関係を屈辱的だとして明との勘合貿易を中止した。1419年には貿易上のトラブルから朝鮮軍が対馬に襲来するという事件(応永の外寇)が起こり、日朝関係も一時は冷え込んだが、六代将軍義教の時代には勘合貿易が再開され、日中間の交易は再び盛んになった。1443年には宗氏と朝鮮の間で嘉吉条約が結ばれ、日朝貿易のルール作りが進められている。しかしながら、1510年には朝鮮の貿易港であった遠浦・乃而浦・富山(釜山)浦で三浦(さんぽ)の乱が起こり、二年後には永正条約が締結されて貿易制限が強化された。1523年には明の貿易港である寧波で細川氏と大内氏が衝突する寧波の乱が勃発した。大内氏は博多商人と組んで日明貿易の独占を図っており、堺の商人と組んだ細川氏がそこに食い込んで争いが起こったようだ。

倭寇・三浦の乱関係地図(コトバンクより)

十五世紀の日明・日朝関係を巡る混乱は、将軍交代に伴う幕府の政策の転換によるものだが、十六世紀のそれは、幕府の統制そのものの弱体化を示す現象であった。1551年には大内氏が滅び、勘合貿易は断絶した。明は海禁政策を敷いたが、それによって生計を失った中国沿岸の住民が海賊行為を働くようになり、義満以降、しばらく鎮静化していた倭寇の活動は再び活性化し、その数も急増した。従って、十四世紀の倭寇(前期倭寇)は日本の海賊だが十五世紀の倭寇(後期倭寇)は中国の海賊が中心であったとみられる。

三浦の乱も寧波の乱も、港で起こった事件である。貿易には大きな利益が伴い、それだけに争いも熾烈になる。貿易政策や国際情勢の変動は当事者にとっては死活問題である。競争相手との確執が流血の惨事についながることもあろう。古今東西、港がヤクザやマフィアの本拠地になることが多いのも、そこから得られる利益が重要な資金源となるからだろう。国と国の関係でもそのあたりの事情は変わらない。昔も今も貿易摩擦は、対応を誤れば大きな惨事につながりかねない危険な問題なのだ。



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