連載日本史㊺ 平安京(4)
農業国家にとって、土地制度は政策の要である。律令制における公地公民の原則は、奈良時代の三世一身法と墾田永年私財法により実質的には崩壊しつつあったが、重税にあえぐ農民の浮浪・逃亡や偽籍の横行はやまなかった。ともかく財源を確保する必要に迫られた中央政府は、823年には大宰府管内に口営田、879年には畿内に官田、各官庁が管理する諸司田と、直営方式の田地を広げていく。一方、私有地の拡大も進み、天皇から皇族に与えられる賜田、空閑地や荒廃田を開発した勅旨田、有力農民を勢力下においた貴族による墾田など、支配者層が率先して私有地の確保に走った。
地方においては、国司が徴税請負人と化しつつあった。つまり、国司が中央政府に対して、任国での一定額の税の納入を請け負い、代わりに任国の運営に専権を持つという支配体制の成立である。国司の最上席者は「受領(ずりょう)」と呼ばれた。この名称からして、公地公民の原則が骨抜きになっていることがわかる。受領は、任国の在庁官人による実務機関である国衙(こくが)を通して、田堵󠄀(たと)と呼ばれた農地経営者に田地の耕作を請け負わせた。田堵󠄀は負名(ふみょう)とも呼ばれ、徴税単位に分けられた田地である「名(みょう)」の経営にあたった。実際に耕作するは下人・作人だが、納税は経営者である田堵󠄀が責任を持つのである。これは中央政府から見れば税収の安定を図るシステムであり、国司(受領)から見れば増税によって自らの私腹を肥やすことのできるシステムであり、地方の下級役人や農民から見れば構造的に搾取を被るシステムであった。
受領の強欲に拍車をかけたのは「成功(じょうごう)」と「重任(ちょうにん)」の制度である。中央政府に一定額の税さえ納めれば、あとは自分の利益となるという受領の地位は、中央での出世が望めない中級・下級貴族にとっては非常に魅力的なものだった。彼らは任期満了後も、同じポストでの再任、すなわち「重任」を望んだ。そこで朝廷に対して、儀式の費用の負担や寺社造営の請負、上級貴族(公卿)への貢納などの私財の提供を行った者には、優先して重任が与えられる「成功」という制度が出来上がった。私財の提供というと聞こえはいいが、要するに賄賂の合法化である。受領はますます強欲になり、無茶な増税や身勝手な任国運営によって、百姓たちから直訴を受ける例も度々起こった。
国司の遙任(ようにん)というシステムも出現した。任命されても自分は任地に赴かず、国司代行として目代(もくだい)を派遣する。目代は税を徴収し、その中から自分の取り分を差し引いて都にいる国司に送る。国司はその中から一定額を中央政府に納入し、残りを自分の私財とする。さらにその中から賄賂を捻出し、都での政治活動や宮廷工作に奔走するといった具合である。一度も任地に足を踏み入れたことのない遙任国司も相当いたようだ。地方政治のシステムは、露骨な利益誘導システムへと変質していったのである。
人間の欲望を計算に入れないシステムは長続きしないが、欲望に依拠しすぎたシステムは社会の腐敗を招く。その塩梅(あんばい)が難しいのだが、平安時代の地方政治は、どうやら後者に傾きすぎていたようだ。「受領は倒るるところに土をつかめ」という当時のことわざは、欲望ファーストの価値観を皮肉りつつも、一方で、そのバイタリティーに驚嘆しているようにも思われる。平安時代が400年近くも続いたのは人々の欲望の力によるものであったとも言えるし、平安貴族政治を崩壊に導いたのは欲望の力であったとも言えるのである。
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