連載日本史196 大日本帝国憲法(3)
憲法発布を受けて翌年の1890年、第一回衆議院議員総選挙が行われた。25歳以上の男子高額納税者による制限選挙であり、有権者は全国民の1.1%にすぎなかったが、投票率は93.9%に達した。現代の選挙における投票率とは雲泥の差である。選挙の結果は民権派の民党勢力が過半数を占め、政府系の吏党勢力を圧倒した。しかし、だからといって民党勢力が内閣を組織できたわけではなかった。現代の政党政治の常識からすると奇妙な感じがするのだが、憲法発布の翌日には黒田清隆首相が超然主義演説で、政府は超然として政党の外に立ち、公正な政治を行うべきだという考えを明らかにしており、選挙の結果と首相指名や内閣組織は連動しないことになっていたのだ。
とは言うものの、議会で過半数を占める民党勢力を無視するわけにはいかない。第一回帝国議会で施政方針演説に立った山県有朋首相は、国境としての主権線とともに、朝鮮を含む利益線の防衛のための軍備増強予算案を示したが、民党は政費削減・民力休養を説いて反対に回った。議会で承認されなければ予算は執行できない。政府は自由党の一部を切り崩して何とか予算案成立に持ち込んだ。翌年の第二議会では軍艦建造費が問題となり、樺山資紀海相が蛮勇演説で藩閥政府を擁護したが、予算案に民党の賛成が得られず、松方正義首相は議会を解散した。解散総選挙では品川弥次郎内相が地方官吏や警察官を動員して大規模な選挙干渉を行い、各地で衝突が起こり多数の死傷者が出た。公正な選挙を守るために、多くの人々が体を張ったのだ。
結局、解散総選挙後の議会でも、軍艦建造費を含む軍備拡張予算は否決された。松方内閣は総辞職し、伊藤博文が再び首相となって内閣を組織した。この内閣は有力な藩閥政治家(元勲)を揃えた顔ぶれで、元勲総出の内閣と呼ばれた。伊藤は彼らの政治力をバックに自由党とも折衝を重ね、天皇から「和衷協同の詔書」を引き出して、何とか海軍軍備の予算拡張に成功した。そこまでして政府が軍備拡張に執心したのは、山県の言うところの「利益線」内の朝鮮半島を巡って、清国との緊張が高まりつつあったからでもある。戦争が近いから軍備を拡張したのか、軍備を拡張したから戦争が更に近づいたのか。おそらくその両方だろう。予算成立の翌年、朝鮮で起こった甲午農民戦争(東学党の乱)への介入を機に、近代日本最初の対外戦争である日清戦争が勃発するのである。
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