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バルカン半島史⑳ ~オスマン帝国の衰退~

15世紀から16世紀にかけて隆盛を誇ったオスマン帝国の支配も、17世紀に入って次第に翳りを見せるようになった。宮廷出身の軍人がスルタンに代わって政治の実権を握るようになり、イェニチェリ軍団の改革を図ろうとしたスルタンのオスマン2世は暗殺の憂き目にあう。東方ではサファーヴィー朝がアッバース1世の治世下で全盛期を迎え、1623年にはバグダッドを占領してオスマン帝国の領土を脅かした。アッバース1世の死後、オスマン帝国はバグダッド奪回に成功したものの、1683年の第2次ウィーン包囲がオーストリアとドイツ諸侯の頑強な抵抗によって失敗に終わったことで、ヨーロッパ方面でも後退を余儀なくされるようになった。1686年にオーストリア軍によってブダペストを奪われたオスマン帝国は、1699年に神聖同盟との間で結んだカルロヴィッツ条約によりハンガリーを放棄。18世紀に入ってからはロシアの南下政策に押されてクリミア半島を失うなど、帝国の衰退は誰の目にも明らかなものとなってきたのである。

外憂内患――対外的な帝国の弱体化は、内部の民族運動を活発化させる。アラビア半島ではアラブ民族主義運動の昂揚を背景にイスラム改革派のワッハーブ派がワッハーブ帝国を樹立。バルカン半島でもロシアの支援を受けたスラブ系の民族運動やギリシャの独立運動が勢力を増す。改革の必要に迫られた帝国中枢では、マフムト2世がイェニチェリを全廃して軍制の近代化を進めた。建国当初はスルタンの親衛隊として帝国の拡大に貢献したイェニチェリ軍団だが、急速に近代化する18世紀の世界では既得権にしがみつく横暴な抵抗勢力と化していたのだ。

帝国支配下のエジプトでは、ナポレオンのエジプト遠征による混乱に乗じたムハンマド・アリーが1805年にエジプト総督となり、実質的な独立政権を樹立した。1811年にマムルークを一掃して近代化を推進したアリーは、1818年にはアラビア半島のワッハーブ王国を滅ぼし、次第にオスマン帝国と敵対するようになった。

バルカン半島では1821年にギリシャ独立戦争が起こる。オスマン帝国の支配下で多くの民族が共存していたバルカン半島では、帝国の弱体化と近代的な国民国家思想の影響により良くも悪くも民族意識が高まっていたのである。そこに列強の利害が絡み、ロシアはスラブ系の民族運動を支援し、オーストリアはゲルマン系を支援し、中東での利権拡大に触手を伸ばす英仏も加わって戦争は長期化し複雑化する。1827年、ナヴァリノの海戦で英仏露の連合艦隊に敗れたオスマン帝国は、1829年のアドリアノープル条約で黒海北岸をロシアに割譲し、翌年にはロンドン会議でギリシャの独立を認めた。ここにオスマン帝国によるバルカン支配は大きく揺らぎ、多くの民族・宗教がせめぎあうバルカン半島は、ヨーロッパの火薬庫となっていくのである。

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