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オリエント・中東史⑮ ~ウマイヤ朝~

正統カリフ時代の最後のカリフであったアリーの暗殺を契機として、661年にムアーウィヤが興したウマイヤ朝は、その正統性への疑念もあって、当初から内紛が絶えなかった。680年にムアーウィヤが死去し、カリフの地位が世襲されると、アリーの後継者フサインが反ウマイヤ朝の反乱を起こす。フサインはカルバラーの戦いで敗れて殺害されたが、彼の死はかえってシーア派の結束を強める結果となった。現代においても、カルバラーはシーア派の聖地とされ、殉教者フサインを追悼するアーシュラ―の祭りは、少数派でありながら根強く信仰を保ってきたシーア派の重要な行事となっている。

683年には、メッカを拠点としたイブン・アッズバイルがウマイヤ朝に反旗を翻し、シーア派もこれに呼応して大規模な内乱となった。ウマイヤ朝の第5代カリフとなったアブド・アルマリクは、首都ダマスクスを拠点としてメッカに討伐軍を派遣し、アッズバイルを殺害して反乱を力で抑え込み、西アジア地域の支配を固めた。アルマリクはウマイヤ朝の権威を確立するため、ムハンマド昇天の地とされるエルサレムに岩のドーム(ウマル・モスク)を建設した。エルサレムは、イスラム教においてメッカ、メディナに次ぐ第三の聖地として位置付けられ、ユダヤ教・キリスト教と並んで三つの宗教の聖地が重なり合う場所となったのである。

オリエントの覇権を確執したアルマリクは、ウマイヤ朝の領土拡張へと乗り出す。北は中央アジアのソグディアナ、東はイランからインダス川流域へ、西はエジプト・チュニジア・モロッコなどの北アフリカからジブラルタル海峡を越えて西ヨーロッパまで進出した。713年にはイベリア半島の西ゴート王国を滅ぼし、半島を支配下に収めた。イスラム勢力のイベリア半島占領は、ヨーロッパのキリスト教世界に大きな衝撃を与えた。732年にはイスラム軍はピレネー山脈を越えてフランク王国にまで迫ったが、宰相カール・マルテルの率いるフランク軍と対峙したカール・ポワティエ間の戦いに敗れ、ウマイヤ朝の領土拡張はイベリア半島までで食い止められた。

ウマイヤ朝は広大な支配地域において、パックス・イスラミカ(イスラムによる平和)を実現したが、それは強大な軍事力によって反対勢力を抑え込んだ「平和」であった。征服地ではアラブ人が支配階級となるアラブ至上主義が採られ、アラビア語が公用語となった。経済面では、東西交通の活性化によって貨幣経済が発達し、軍人や官僚の俸給なども現金で支給されるアター制が採用された。一方で、多民族が混在する広範囲の領土内では、支配民族であるアラブ人と他の民族との軋轢が目立つようになっていった。そもそもイスラム教は、神の前での平等を掲げる宗教である。アラブ人優位の政策はイスラム教本来の教義との明らかな矛盾であった。税制の面でもウマイヤ朝は、異教徒に課す人頭税(ジズヤ)や地租(ハラージュ)を、非アラブ民族のムスリム改宗者(マワーリー)にも課したので、税負担の格差に対する不満も高まっていった。

ウマイヤ朝支配への鬱積した不満を背景に台頭したアッバース家のアブー・アルアッバースは、シーア派も含めた反ウマイヤ朝勢力を統合して挙兵し、749年にアッバース朝の成立を宣言した。翌年には首都ダマスクスが陥落してウマイヤ朝が滅亡、ウマイヤ朝の末裔たちはイベリア半島に逃れて後ウマイヤ朝を建設した。建国以来わずか90年で政教一致の大帝国を作り上げたウマイヤ朝は、まさにその政治と宗教の内部矛盾によって崩壊したのである。

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