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バルカン半島史⑤ ~僭主制から民主制へ~ 

アテネをはじめとする古代ギリシャのポリスでは、王政から貴族政を経て民主政へと政治体制が移っていったが、貴族政から民主政への過渡期に現れたのが僭主政(Tyrany)であった。「僭主」とは非合法な手段で権力を手にした独裁者を指す言葉である。僭主政の背景には、貨幣経済の浸透がもたらした格差拡大に伴う貴族と平民の対立があった。

たとえばアテネでは、前7世紀頃から、貴族支配に対して参政権を持たない多数の平民の不満が鬱積していた。前621年のドラコンの立法によって、それまでの慣習法が成文法となり、貴族の恣意的な法解釈が退けられ、市民は法の保護を受けられるようになったが、それでも貴族と平民の格差は大きかった。前594年には貴族と平民の双方から支持を受けたソロンが執政官(コンスル)に就任し、累積債務の解消や債務奴隷の禁止、財産ごとの権利・義務の確立、民衆裁判所や400人評議会の改革を矢継ぎ早に行った。これにより平民の権利は大幅に伸長し、政治参加の機会も拡大したが、それで一気に民主政へと移行したわけでもなかった。経済的な豊かさを手にした市民たちが、必ずしも政治的に成熟したわけではなかったのである。

特定階層の利益を代表することなく調停者として公正にふるまうことを第一としたソロンの政治姿勢は、時に民衆の目には厳しいものに映った。前560年頃、ソロンの政治にも不満を抱く市民たちの前に登場したのが僭主ペイシストラトスである。先の戦争で華々しい戦果を挙げて民衆の人気を得た彼は自らの体を傷つけて広場(アゴラ)に現れ、反対派による暴力を受けたと主張し、自らの護衛として親衛隊を持つことを民会に認めさせた上で、その武力を用いて権力を握った。独裁者となった彼は民衆の支持を得たが、ソロンはその権力掌握の過程を問題視し、人々に警告を発してアテネを離れた。ペイシストラトスの独裁権力は彼の息子たちに世襲されたが、息子たちはすぐに暴君と化し、人々はソロンの慧眼を改めて見直した。やがてペイシストラトスの息子たちが暗殺や追放によって権力の座を追われた後、人々は僭主の再びの出現を防ぐために対策を講じる必要があると考えた。

前508年頃、コンスルとなったクレイステネスは、改革の一環として「陶片追放(オストラシズム)」という制度を創始した。これは僭主になりそうな危険性を持つ政治家の名を陶片に書いて投票するものであり、権力者への弾劾裁判という要素を含んでいた。こうした独裁権力の抑制策が機能してはじめて、ポリスに民主政が根付き始めるのである。

民主主義は市民の政治的成熟を前提としたものだ。ペイシストラトスが非合法な手段で権力を奪取した時、それを阻止しようとしたソロンは、周囲から「狂人」と呼ばれた。しかし、後に彼の息子たちが独裁権力のもとで暴君化した時に、民衆は一時的な人気に熱狂して判断を誤っていたのは自分たちであったと思い知ったのである。古代ギリシャに限らない。フランス革命後の混乱の中からナポレオンが台頭し、第一次大戦後の世界で最も民主的だと言われたワイマール憲法の下でナチスが第一党となってヒトラーが首相に選出されたことを鑑みると、民主政が独裁者を生み出す危険性を孕んだ矛盾に満ちたシステムであることを痛感せざるをえない。それは現代のトランプ政権を巡る米国の状況にも通底する、歴史的かつ根源的な矛盾なのである。

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