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連載日本史216 明治から大正へ

1911年、中国で辛亥革命が起こり、清朝が滅んで、翌年には中華民国が成立した。同年7月に明治天皇が崩御。元号は明治から大正に移り、1912年は前半が明治45年、後半が大正元年ということになった。

辛亥革命関係図(帝国書院「エスカリエ」より)

中華民国の臨時大総統は三民(民族・民権・民生)主義を掲げた孫文であったが、清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)を退位させることを条件に、北方軍閥に勢力圏を持つ袁世凱が、まもなくその地位を譲り受けた。中国の動きに危機感を抱いた陸軍は二個師団増設を政府に要求したが閣議で否決され、上原勇作陸相は後任を推薦せずに辞職するという強硬手段に出た。山県内閣の時に導入されていた軍部大臣現役武官制により、首相は現役武官以外の大臣を指名できなかったのである。結果として、陸相人事は暗礁に乗り上げ、西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。文民統制が確立していないと、しばしばこういう事態が起こる。

尾崎行雄(ozakiyukio.jpより)

西園寺に代わって三度目の内閣を組織した桂太郎は、その時点で宮中を司る内大臣・侍従長であった。これが宮中・府中の別を乱すと批判を受け、「憲政擁護・閥族打破」を掲げて第一次護憲運動が起こった。中心となったのは立憲国民党の犬養毅と立憲政友会の尾崎行雄である。桂の背後には長州閥・陸軍閥がいたのは明らかで、それに対する世論の反発も護憲運動の追い風となった。桂は立憲同志会を結成して対抗したが、内閣不信任案が議会で可決され、二か月足らずで総辞職に追い込まれた。いわゆる大正政変である。

明治末期から大正にかけての政局(「世界の歴史まっぷ」より)

続いて立憲政友会を与党として、薩摩出身で海軍を代表する山本権兵衛が首相となった。山本は軍部大臣現役武官制を改正して制約を緩め、文官任用令を改正して政党員にも高級官僚への道を開いた。しかし翌年には海軍の汚職事件であるジーメンス事件が発覚し、山本も一年余りで退陣を余儀なくされた。 巻き返しを図る長州・陸軍閥は、民衆や言論界に人気のある大隈重信を立てて政友会に対抗した。大隈は民衆政治家としてのイメージを高める戦略としてレコードや列車を活用した斬新な選挙運動を行った。総選挙の結果、立憲同志会は立憲政友会に圧勝し、大隈は陸軍の望む二個師団増設を議会で通過させた。

明治末期から大正初期にかけての政局を眺めてみると、藩閥政治・軍備拡張と政党政治・緊縮財政の対立であったはずの議論が次第に変質し、論点が曖昧になり、結局はイメージ戦略で権力の行方が左右されるという流れが見えてくる。何となく、昨今の選挙の状況とダブって見えてしまうのは気のせいだろうか。

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