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連載日本史170 幕末(5)

長州の桂小五郎(木戸孝允)は若い頃から剣豪として知られ、江戸での剣術修行で神道無念流の免許皆伝を得て、江戸三大道場のひとつであった練兵館の塾頭に任命されている。一方で学問にも優れ、吉田松陰から山鹿流の兵法を学び、ペリー来航を契機に海外事情への関心も深め、さまざまな学問分野に精通するようになった。文武両道の秀才だったわけである。藩内では尊王攘夷派のひとりとして京を中心に活躍していたが、八月十八日の政変・池田屋事件・禁門の変・第一次長州征伐と逆風に見舞われ、京では新撰組などから命を狙われる日々が続いた。改名や変装を駆使して何度も窮地を逃れ、高杉晋作らとともに長州藩のリーダーとして、藩論を倒幕へと導いていったのである。

桂小五郎(Wikipediaより)

一方、土佐の脱藩浪士である坂本龍馬も、若い頃に江戸で剣術修行を積み、千葉周作のもとで北辰一刀流の免許皆伝を得て、三大道場のひとつである玄武館の塾頭に任命されている。かつては土佐勤王党の武市半平太らとともに尊王攘夷を目指した龍馬であったが、脱藩後は勝海舟の感化を受けて開国派へと転じ、神戸海軍塾の塾頭を経て、1865年に長崎で亀山社中(後の海援隊)を結成している。これは薩摩藩や長崎商人からの出資を受けた私設海軍兼貿易商社であり、近代的な株式会社の発想を持つ組織であった。旧来の藩のしがらみから脱け出し、自由な発想で新たな社会のイメージを思い描いた龍馬ならではの事業であった。

坂本龍馬(Wikipediaより)

龍馬を西郷隆盛に引き合わせたのは勝海舟だった。勝は幕臣でありながら、勤皇・佐幕を問わず、自分の見込んだ若者たちの面倒を良く見る親分肌の人物であり、新時代を担う多くの若者たちの触媒としての役割を果たした。ちなみに勝も直真影流の免許皆伝を持つ剣豪であった。ここまで来ると単なる偶然とは言い切れない。武道における熟練と、指導者としての人間的な成熟との間には、かなり強い相関関係があると思われるのである。

修行論(内田樹)

武道家の内田樹氏は著書「修行論」で、武道の修行を通じて開発されるべき能力とは「生き延びる力」だと述べている。それは敵を倒すことに主眼を置くのではなく、自分自身の弱さがもたらす災いを最小化し、他者と共生する技術を磨く訓練の体系だというのである。確かに、桂小五郎や坂本龍馬、勝海舟らの足跡を辿ってみると、可能な限り敵とも共生しながら生き延びようとする精神的所作が身体化されているような気がする。だからこそ彼らは、幕末の激動期に何度も窮地をくぐり抜けながら大きな仕事をなし得たのだ。

土方歳三

もちろん武道家の全てが彼らのような道を辿ったわけではない。かつて龍馬の盟友であった武市半平太は、やはり三大道場のひとつであった士学館の塾頭を務めた人物であったが、やがて門弟の岡田以蔵らを使った「天誅」と称する反対派への暗殺に関与するようになる。結局はそれが発覚したことによって、以蔵らは斬首、半平太は切腹に処せられた。また、彼らと同時期に江戸の天然理心流の道場である試衛館に集った近藤勇・土方歳三・沖田総司らは、後に新選組の中心メンバーとなり、京の治安維持の名のもとに勤皇の志士たちを斬りまくった。彼らは時流に乗るのを潔しとせず、特に土方は新撰組壊滅後も新政府への抗戦を続け、函館五稜郭で奮戦の末に戦死している。
司馬遼太郎氏は土方を主人公とした名作「燃えよ剣」の中で、彼にこう言わせている。
「目的は単純であるべきである。思想は単純であるべきである。新撰組は節義にのみ生きるべきである。……なあ総司、おらァね、世の中がどうなろうとも、たとえ幕軍がぜんぶ敗れ、降伏して、最後のひとりになろうとも、やるぜ」
内田氏の言う武道の本質からは外れるかも知れないが、これもまた「武」のひとつの形であると言えよう。

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