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連載中国史57 中華人民共和国(2)

1966年に始まった文化大革命は、大躍進政策の失敗以後に実権を握った劉少奇や鄧小平などの修正主義者に対して、毛沢東が権力奪回をもくろんで仕掛けた運動である。「造反有理(反抗には理由がある)」をスローガンに学生たちを「紅衛兵」として組織し、党幹部や知識人の多くを失脚・追放へと追い込んだ。共産主義の理想を守るのだという大義名分の下、ヒステリックになった学生集団が毛沢東思想に少しでも異を唱える者たちを囲んでつるし上げ、自己批判を迫り、次々と指導者の地位から引きずり下ろしたのである。劉少奇も鄧小平も失脚した。毛沢東への極端な個人崇拝ばかりが広まり、政治・経済のみならず、学問や文化の世界までが大混乱に陥った。1971年には党の実力者であった林彪が毛沢東暗殺によるクーデターを企てたが、事前に情報が漏れて失敗。林彪は飛行機で逃亡中にモンゴルで墜落死した。

文化大革命での「自己批判」に名を借りた吊るし上げ(CNN.co.jpより)

毛沢東には類稀なる人心掌握の才能があり、それが国共内戦の勝利と中華人民共和国の建国につながったのは事実だが、それゆえに弊害も大きかった。特に文化大革命は、人々の生活のみならず、思想や良心の領域にまで踏みこんで人間の尊厳を脅かすものであり、若い学生達を手先として使ったという点でも罪深いと言える。毛沢東語録には「革命は暴力である。一つの階級が他の階級を打ち倒す激烈な行動なのだ」という有名な言葉があるが、晩年の彼が実際に行ったのは、階級闘争というよりは、自分自身の肥大した権力欲を満たすための組織的な暴力行為にすぎなかった。

「毛主席語録」を掲げる民衆をあしらったプロパガンダポスター(ハフポストより)

林彪事件以降、毛沢東は鄧小平を呼び戻し、若干の軌道修整を図ったが、毛沢東の妻であり文革の強硬派でもあった江青ら四人組と鄧小平らが激しく対立。不安定な政治が続いた。外交面では1969年の珍宝島(ダマンスキー島)での国境紛争によって悪化した対ソ関係を背景に、中国は米国に急接近。ベトナム戦争の泥沼化に悩む米国もこれに応じ、1971年に台湾の中華民国に代わって中華人民共和国が国連の代表権を得たこともあり、1972年にはニクソン大統領が訪中。続いて田中角栄首相も訪中し日中国交正常化が成立した。

毛沢東とニクソン(Wikipediaより)

1975年、台湾で蒋介石が死去。翌年には周恩来が死去し、それに際して行われた中国の民主化を求めるデモを、四人組の意を受けた当局が暴力的に鎮圧するという第一次天安門事件が起こった。「革命の暴力」が民衆に向けられたのである。鄧小平は再び失脚したが、九月に毛沢東が遂に死去し、四人組が逮捕・投獄されて文革がようやく終結するに及んで、翌年、再び事実上の最高指導者へと返り咲いた。たいしたバイタリティーである。

鄧小平(毎日新聞HPより)

大躍進政策で多くの人民を餓死に至らしめ、文化大革命で多くの人々の尊厳を奪い、自らの権力欲を満たすために中国全土を大混乱に陥れた毛沢東であったが、建国の功労者として今もなお称えられ、天安門広場には彼の巨大な肖像画が掲げられている。文革を直接経験していない若い世代には、毛沢東を崇拝する動きが再び広がる傾向さえあるようだ。それは都合の悪い事実には蓋をするという中国政府の体質にもよるものだろう。そして、まさにその体質こそが、毛沢東の誤りを更に拡大せしめたのだ。そう考えると、毛沢東個人の過ちもさることながら、それを隠蔽し、忖度し、助長し、傷口を広げた人々が、少なからずいたことも見逃せないだろう。それは決して対岸の火事ではないのだ。

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