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連載日本史273 阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件

1995年1月17日未明、阪神・淡路大震災が起こった。震源は明石海峡、地震規模はマグニチュード7.3、最大震度7の直下型巨大地震であった。死者6400名以上、負傷者4万名以上、家屋全半壊24万戸以上にのぼる大惨事となり、震災直後の2日間にわたる火災によって、神戸市長田区では区の中心部全域が灰燼と化した。鉄道や道路などの交通網が寸断され、電気・ガス・水道などのライフラインが止まり、埋め立て地は液状化して地盤沈下を起こし、都市機能と経済基盤が大きく損なわれた。被害は淡路から神戸・芦屋・西宮・尼崎・大阪と阪神一円に及んだ。

震災で倒壊した高速道路(weathernews.jpより)

当時の政府は未曽有の大災害に対して十分な想定をしておらず、初期対応が遅れた。その教訓から、緊急連絡体制の確保、情報提供システムの整備、安全基準の見直しなど、危機管理体制の充実が急務とされた。そして、震災の惨事の記憶も生々しい中、3月には東京の中心部で地下鉄サリン事件が勃発したのである。

地下鉄サリン事件で混乱する都心部(www.yomiuri.co.jpより)

3月20日の朝、通勤ラッシュで混み合う地下鉄の3路線・5車両で、刺激臭を伴う猛毒ガスが発生。死者13名、負傷者6000名以上という、国内最悪の無差別テロ事件となった。警察は化学兵器サリンを使ったオウム真理教による組織的な犯行と断定。教祖の麻原彰晃(松本智津夫)はじめ、教団幹部・実行犯ら40名余りを逮捕した。捜査の過程で、未解決であった弁護士一家殺害事件、松本サリン事件、公証人役場事務長監禁致死事件なども全てオウムの犯行であったことが証明され、オウム真理教が宗教法人の名を借りた巨大なテロ組織であったことが白日の下にさらされたのだ。

死刑が確定したオウム真理教関係者(www.sankei.comより)

サリン事件の被害者や目撃者の多くは、その後もPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しむことになった。震災においても被災者にPTSDの症例がしばしば見られたが、地下鉄サリン事件の方は明白な悪意を持った無差罰テロ犯罪であり、それに巻き込まれた人々やその家族にとっては、より理不尽さを感じる出来事であっただろう。一方、事件の加害者であるオウム教団側には、医師や研究者など高学歴で社会的地位の高い者も多数含まれており、それがいっそう社会の不気味な病理を浮き彫りにしていたと言える。

作家の村上春樹氏は、地下鉄サリン事件の被害者と家族への60名に及ぶインタビューをまとめた「アンダーグラウンド」と、事件の加害者へのインタビューをまとめた「約束された場所で」を相次いで出版した。それぞれのあとがきで、彼はこう述べている。

<阪神大震災と地下鉄サリン事件というふたつの超弩級の事件が、短期間の間に続けて起こってしまったというのは、偶然とはいえ、まことに驚くべきことである。それもちょうどバブル経済が盛大にはじけ、右肩上がりの「行け行け」の時代がほころびを見せ始め、冷戦構造が終了し、地球的な規模で価値基準が大きく揺らぎ、同時に日本という国家のあり方の根幹が厳しく問われている時期にやってきたのだ。まるでぴたりと狙い澄ましたように。
 その二つの出来事に共通してある要素をひとつだけあげろと言われれば、それは「圧倒的な暴力」ということになるだろう。もちろんそれぞれの暴力の具体的な成り立ちはまったく異なっている。ひとつは不可避的な天災であり、もうひとつは不可避とは言えない<人災=犯罪>だった。それらを「暴力」という共通項でひとつにくくってしまうことに無理があるのはもちろんよくわかっている。
 しかしたまたま実際に被害を受けた側からすれば、それらの暴力の襲いかかり方の唐突さと理不尽さは、地震においても地下鉄サリン事件においても不思議なくらい似通っている。暴力そのものの出所と質は違っても、それが与えるショックの質はそれほど大きく違わないのだ。サリン事件被害者の話を聞きながら、私はしばしばそのような印象を持った。
          (中略)
 それらはともに私たちの内部から——文字どおり足元の下の暗黒=地下(アンダーグラウンド)から——「悪夢」という形をとってどっと吹き出し、同時にまた、私たちの社会システムが内奥に包含していた矛盾と弱点とをおそろしいほど明確に浮き彫りにした。私たちの社会はそこに突如姿を見せた荒れ狂う暴力性に対して、現実的にあまりにも無力、無防備であった。我々はその到来を予測することもできず、前もって備えることもできなかった。そこで明らかにされたのは、私たちの属する「こちら側」のシステムの構造的な敗退であった。
 言い換えれば、我々が平常時に<共有イメージ>として所有していた(あるいは所有していたと思っていた)想像力=物語は、それらの降って湧いた凶暴な暴力性に有効に拮抗しうる価値観を提出することができなかった——ということになるだろう。>
     (村上春樹「アンダーグラウンド」より)

<私がオウムの信者、元信者のインタビューを続けていて、その過程で強く実感したのは、「あの人たちは『エリートにもかかわらず』という文脈においてではなく、逆にエリートだからこそ、すっとあっちに行っちゃったんじゃないか」ということだった。
 唐突なたとえだけれど、現代におけるオウム真理教団という存在は、戦前の「満州国」の存在に似ているかもしれない。1932年に満州国が建国されたときにも、ちょうど同じように若手の新進気鋭のテクノクラートや専門技術者、学者たちが日本での約束された地位を捨て、新しい可能性の大地を求めて大陸に渡った。彼らの多くは若く、新しい野心的なヴィジョンを持ち、高い学歴と優れた才能を持っていた。しかし日本という強圧的な構造を持つ国家の内側にいるかぎり、そのエネルギーを有効に放出することは不可能であるように思えた。だからこそ彼らは世間のレールからいったんはずれても、もっと融通のきく、実験的な新天地を求めたのだ。そういう意味では——それ自体だけをとってみれば——彼らの意志は純粋であり、理想主義的でもあった。おまけにそこには立派な「大義」も含まれていた。「自分たちは正しい道を進んでいるのだ」という確信を抱くこともできた。
 問題はそこに重大な何かが欠落していたことだった。満州国の場合、その何かが「正しく立体的な歴史認識」であったということが今ではわかる。もっと具体的なレベルでいえば、そこに欠けていたのは「言葉と行為の同一性」であった。「五族協和」だの「八紘一宇」だのといった調子の良い美しい言葉だけがどんどん一人歩きをして、その背後にいやおうなく生じる道義的空白を、血生臭いリアリティーが埋めていったわけだ。そして野心的なテクノクラートたちはその激しい歴史の渦の中に否応なく呑み込まれていくことになった。
 オウム真理教事件の場合、同時代的に起こった出来事であるが故に、今ここで明快にその何かの内容を定義してしまうことにはやはり無理があるだろう。しかし広義的に言えば「満州国」的状況について語れるのとだいたい同じことが、オウム真理教事件にも適応できるはずだと私は考えている。そこにあるものは「広い世界観の欠如」と、そこから派生する「言葉と行動の乖離」である。
    (中略)
 カルト宗教に意味を求める人々の大半は、べつに異常な人々ではない。落ちこぼれでもなければ、風変わりな人でもない。彼らは、私やあなたのまわりに暮らしている普通(あるいは見方によっては普通以上)の人々なのだ。
 彼らは少しばかりまじめにものを考えすぎるかもしれない。心に少しばかり傷を負っているかもしれない。まわりの人たちと心をうまく通じ合わせることができなくて、いくらか悩んでいるかもしれない。自己表現の手段をうまく見つけることができなくて、プライドとコンプレックスとのあいだを激しく行き来しているかもしれない。それは私であるかもしれないし、あなたであるかもしれない。私たちの日常生活と、危険性をはらんだカルト宗教を隔てている一枚の壁は、我々が想像しているよりも遥かに薄っぺらなものであるかもしれないのだ。>
    (村上春樹「約束された場所で」より)

——戦後50年という節目の年に起こったふたつの大事件。それは日本の現代史の大きなターニングポイントを示すとともに、我々の社会に共有されていたはずの<物語>の在り方を問い直すものでもあったのだ。

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