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連載中国史1 黄河文明(1)

中国の二大河川のひとつである黄河流域では、太古から世界有数の文明が発展した。紀元前5000年から4000年にかけて展開した前期黄河文明を、代表的な遺跡が発掘された地名にちなんで仰韶(ヤンシャン)文化と呼ぶ。

中国の先史文化(allchinainfo.comより)

黄河は「暴れ竜」と異名をとるほど洪水が多く、そのため現代に至るまで何度も流路が変わっている。それが内陸部の黄土を中下流域へと押し流し、畑作に適した泥土をもたらす結果となった。

黄河(Wikipediaより)

黄河文明の舞台となった華北平原は、降水量が少なく、気温の年較差が大きい。そうした気候を背景とした仰韶文化は、粟(あわ)や黍(きび)などの畑作穀物を食料基盤とし、豚・犬・鶏などを飼育する農耕文化であった。人々は竪穴式住居に住み、小集団での環濠集落を形成していた。素焼きの土器に赤や黒の彩色を施した彩陶が、河南省や陝西省の遺跡から出土している。特に河南・河北・陝西・山西・山東省にわたる黄河中下流域は「中原(ちゅうげん)」と呼ばれ、古代から近現代に至るまで、中華統一の野望を持った英雄たちが覇を競う舞台となった。

彩陶盆(河南省仰韶文化博物館所蔵)

「中原に鹿を逐(お)う」という言葉がある。もともとの意味は、王位や政権を得ようとして争うこと。そこから転じて、ある地位や目的を目指して競争することを示す言葉にもなった。中華思想とは、周辺の民族を野蛮人とみなし、漢民族による中国を世界の中心と考える自民族中心主義(エスノセントリズム)を表す言葉だが、その中華の中心に位置するのが中原であり、その中心を流れるのが黄河なのであった。すなわち黄河とは、中華思想的観点から見れば、太古の昔から世界のど真ん中を貫いて流れる泥の大河なのだ。

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