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連載日本史㉞ 平城京(3)

平城京を中心とした大和朝廷の支配は、どこまで及んでいたのだろうか?
九州南部には、隼人(はやと)と呼ばれる人々が住んでいた。713年に中央政府は大隅国を新設し、この地域の支配体制を強化した。720年には隼人の蜂起があり、大隅国司が殺害されたが、征隼人持節大将軍である大伴旅人の軍によって鎮圧された。旅人は後に大宰府の長官に指名されている。大陸の軍事的脅威に備えて設けられた大宰府は、結果的に西海道(九州)の管理統括機関として機能したのである。

令制国地図(北海道・沖縄は日本に含まれていない)(josebaquero.1.blogspot.comより)

東北では、七世紀に阿倍比羅夫(あべのひらふ)の軍が日本海を北上し、蝦夷(えぞ)と呼ばれた現地住民を次々と制圧した。八世紀に入って、712年には出羽国が置かれ、日本海側の支配はほぼ完了した。当時は中国・朝鮮との間で日本海を囲むような形での交易圏が確立しており、日本海側の方が、中央と地方の利害が一致しやすかったのであろう。

宮城県多賀城市に残る多賀城政庁跡(Wikipediaより)

太平洋側の東北平定には時間がかかった。724年、現在の宮城県東岸に多賀城が築造され、陸奥国府・鎮守府が設置されて東北支配の根拠地となった。しかし太平洋側の蝦夷たちは容易に服従せず、たびたび交戦が起こった。789年、朝廷軍は阿弖流為(アテルイ)を首領とした蝦夷軍に大敗を喫する。坂上田村麻呂が征夷大将軍に任ぜられて蝦夷征討にようやく成功するのは、平安京遷都後の九世紀初頭であった。

古代東北城柵図(asahi-net.or.jpより)

蝦夷という呼称には野蛮人という意味が含まれる。東北地方の住民を蝦夷と呼んだのは、中国が周辺異民族を東夷・西戎・南蛮・北狄という蔑称で呼んだのと同じ、いわば日本版中華思想によるものであった。一方で、蘇我蝦夷のように、人名にあえてそうした呼称を用いることで、彼らの持つ野性的なパワーにあやかろうとする複雑微妙な心情もあったようだ。そもそも狩猟民である彼らは農耕民中心の大和政権とは異なる文化の中に暮らしていたのである。坂上田村麻呂は蝦夷軍のリーダーであった阿弖流為の指導力を認め、東北地方の政治運営を彼に任せるよう朝廷に進言するが受け入れられず、結局、阿弖流為は中央政府によって処刑された。


大阪府枚方市牧野公園にある伝・阿弖流為の「首塚」の石(Wikipediaより)

古代日本における朝廷の支配地域には北海道・沖縄は含まれていなかった。北海道にはアイヌ、沖縄には琉球民族の、それぞれ独自の生活文化があったのだ。阿弖流為の処刑に象徴される、中央政府の地方文化への無理解は、どこか現代にも通じるところがあるような気がするのである。




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