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連載日本史79 蒙古襲来(3)

蒙古襲来の後、武将たちが強く恩賞を求めたのは、実際に彼らの台所事情が苦しくなっていたからでもある。三度目の侵攻こそなかったものの、幕府は再度の襲来に備えて対応を余儀なくされた。九州だけでなく、西日本一帯の武士たちが動員され、1293年には北九州に鎮西探題が置かれた。武士たちにしてみれば、見返りの保障もないままに負担だけが増えていく感覚を持ったことだろう。時宗の死後、1285年には幕府の内部対立から有力御家人の安達泰盛が滅ぼされ、北条得宗家の御内人への権力集中が露骨になったことで、御家人たちの潜在的な不満は更に募ることとなった。

蒙古襲来後の勢力図(「世界の歴史まっぷ」より)

鎌倉時代初期の武士の財産分与は分割相続が原則だった。一族をとりまとめる宗本家の惣領のもと、分家として財産を分け与えられた庶子たちが軍役や番役を分担したのである。しかし、時代が下るにつれて、細分化された所領が、武家の窮乏化を招く一因となった。分家同士の利害が必ずしも一致するわけではない。土地や財産の有効活用は、ある程度まとまった大きさがあってこそ可能となる。蒙古襲来に伴う負担増もあって、武家の財産分与は所領の効率的な安定経営に向けた単独相続へと切り替わっていった。

「悪党」の出現(東京法令「日本史アーカイブ」より)

単独相続が主流となれば、当然、財産分与に加われない庶子が多数発生することになる。相続に関する訴訟が一気に増加した。一族から外れた庶子たちは流動化し、中にはいわゆる「悪党」を組織し、商品の流通を掌握しながら集団で反体制的行動をとる者たちも現れた。近代の日本における長子相続の家父長制の下で、農村から流出した労働力が、産業構造の変革を支えたのと同じ構図であろう。「悪党」は幕府からみれば、封建社会の秩序を乱す存在だが、経済的な視点からみれば、新たな産業構造の担い手でもある。貨幣経済の浸透とも相まって、封建経済の行き詰まりは、商工業の発達を促す誘因となったのである。

「神風」伝説の一員となった蒙古襲来絵詞(Wikipediaより)

蒙古襲来の後に恩賞を要求したのは武士たちだけではない。朝廷は各地の寺社に異国降伏の祈祷を依頼していたため多くの寺社がその見返りを求めた。元軍が撤退したのは嵐によるものであり、その嵐は神仏の加護によって生じたものだというわけだ。この「神風」伝説が、蒙古襲来が後世の日本に残した最大の負の遺産であると言えるかもしれない。太平洋戦争末期における神風特攻隊の名称の由来が、ここからきていることは言うまでもない。日本は神の国だという根拠のない精神論が、多くの若者を死に追いやった。もちろん、鎌倉時代の人々からすれば、後世にそんな悲劇が起こるとは想像もつかなかっただろうが・・・。




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