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連載日本史㉜ 平城京(1)

707年、文武天皇が25歳の若さで崩御し母親の元明天皇が即位した。翌年、日本初の本格的な銅貨である和同開珎(わどうかいちん)が鋳造された。朝廷は物々交換経済から貨幣経済への切り替えを推進しようと考えたのだ。中心人物は藤原不比等。大宝律令制定の立役者である。法律の次は経済というわけだ。そして遷都。水利や衛生、防衛などの点で問題があった藤原京から奈良盆地北部(現在の奈良市・大和郡山市)へ都を移すという決定がなされた。そこからは突貫工事である。十分な施設も未だ完成しないうちに、710年、平城京への遷都が敢行された。ここにも不比等の強い意向が働いていたようだ。

和同開珎(Wikipediaより)

貨幣経済は信用がないと機能しない。貨幣は煮ても焼いても食えない。物々交換の世界に暮らしていた人々から見れば、銅銭など何の役に立つのか全くわからない代物だったろう。711年、朝廷は蓄銭叙位令を発布する。なんと蓄えた銭貨に応じて位を与えるというのである。つまり、貨幣の信用創出のための担保として位階を差し出したのだ。さらに遷都まもない平城京には、左京・右京それぞれに、東市・西市という官製の市場が置かれた。クレジット(信用)とマーケット(市場)の創出。現在の仮想通貨の普及も、舞台がネット空間になっただけであって、基本的な原理は同じだ。平城京遷都は、単なる政権中枢の移転というだけではなく、巨大な経済改革をも目論んだ公共事業だったのだ。


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